わたくしごと註解

17-18世紀の西洋哲学および生命思想史を研究しています。執筆者については「このブログについて」をご覧ください。

何かに合うものを見つけるということ

或る一つの事物があったとき、それはそれだけで良いものである、ということが少なくない。白米は白米だけで美味しいという人もいるように。

それでも、私はそれだけでも良いものに、なにかもう一つ合わせたいと思う。白米には納豆なり、漬物なり、なにか付け合わせたいのだ。白米の場合、付け合わせは多くの人々によって研究されていて、「ごはんがすすむ君」なる商品まである。付け合わせの選択肢に迷うことはあれ、スーパーに行って何一つそれらが見つからないということも考えづらい。

なんども繰り返される事物については付け合わせを考案し皆で共有することもできなくはない。「ここにはこれだろう」というもの、例えば青空には飛行機雲なんかがいい。草原には風だ。馬でもいい。

でも、じつは世の中のたいていの事物には、共有された付け合わせのモデルが存在していない。「今宵」はどうだろう。一般的な意味での今宵ではない、今日という日に限定された「今宵」である。今宵というものに、いったい何を合わせるのがいいのか。

例えばの話である。例えば、「今宵」に何か音楽を合わせたいと思ったならば、どの音楽を選ぶだろうか。私は彼の音楽を聴くことにした。

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「今宵」に合う音楽を見つけられるように、生きたいと思う。今宵だけではない。それだけで良いものに出会うだけでは物足りない。他にはない組み合わせで、これこそが良いのだと思い込んでいよう。