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CORPUS ORGANICUM

日々の雑記。

自然そのものについて

雑記

自然そのものとはなにか。自然の二文字がくっついた概念は、ちょっと考えただけでもわりとある。自然権自然言語自然宗教自然主義、自然状態、自然神学、自然哲学、自然法…最近では、自然食品、自然保護、自然化粧品……。

日本語では nature に「自然」もしくは「本性」という語をあてることが一般的である。とりわけ、この「自然」というものに着目したい。どうやら、この訳語が導入される当時には「天地」「万有」「造化」などという訳語も存在したらしい。「天地」も「万有」も〈もの〉を指し示す語であり、「造化」は〈作用〉を指し示す。「自然」という語が示すのはただ「自ら然る」であり、それ以上のことをこの二文字自体からは読み取ることができない。〈もの〉や〈作用〉の具体性は「自然」という〈状態〉を表す言葉よりもはるかに強いように思われる。しかしそれでも、近代西欧的な nature の用法、すなわち外的対象一般を指し示す(その意味では「天地」や「万有」という意味に近い)用法も入ってくることになる。〈もの〉として外的に存在するものとしての自然である。こうして、「自然」という語には大きく〈状態〉と〈もの〉を指し示す意味が存在している。

西洋古代に目を移せば、アリストテレスが自然を広い意味での運動の原理と考えている。広い意味というのは、単に位置の移動を考えるのみならず、生成消滅や質の変化、量の増大減少までも含みこむということである。ここで原理とは生み出すものであり、その意味では自己生成的な自然が読み取られることになる。それは、自然そのものに内在的な働きを認めることである。

それと顕著な仕方で対立するのは、近代西欧、とりわけ科学革命以降の自然観であろう。その時期の代表的な自然観は機械論的自然観と呼ばれるものである。自然を幾何学的延長に還元すること、精神から切り離すことに重点が置かれる。この意味で西洋古代における自律的で自己生成的な自然概念から距離を置くことになる。

これは時代の大局であり、細部を詳細に検討するのであれば、その各時代に反発や賛成が入り混じっていたことは言うまでもない。しかし、自然をどのように見るかということは常に重要な事項であったというのは確かである。

問いは改められなければならない。私の「自然そのものとはなにか」という問いは、自然哲学的な意味での問いではない。むしろ問いは「なぜ多くの人々が自然を考えなければならなかったのか」という、非常に人文社会学的な問いである。自然を考えるという人間の営みの意味を解釈することが問題である。