わたくしごと註解

17-18世紀の西洋哲学および生命思想史を研究しています。執筆者については「このブログについて」をご覧ください。

紅葉は落ち葉を教えてくれる

今年は少し遅かったのだが、街の木々もだいぶ紅葉しているのに気づいた。私が気づくのが遅かったのか、木々の方が色づくのが遅かったのか。天気予報によれば、木々の方が遅れていたようだけれど、最近あまり外に出ることがないので実際のところどうだったのかは知らない。何にしても今年もちゃんと色づいてくれてよかったと思う。

紅葉は私の注意を落ち葉へと向けさせる。すると落ち葉が不思議なほどに綺麗な色に変容してそこらじゅうに散らばっていることに気づく。変なことかもしれないけれど、落ち葉に気づいて紅葉に気づくのではなくて、紅葉が私に落ち葉を気づかせるのである。だから私は紅葉していない季節には落ち葉を意識することはほとんどない。

落ち葉を見ていると、様々な大きさの葉が落ちていることに驚く。それにいろんな色の葉っぱが落ちている。真っ赤、茶色、黄色、緑、黒くなっているのも…。どの葉も個性的でいつまでも自分のお気に入りの落ち葉を探し続けられるのではないか。

そういえば、次のような話があるのを思い出す。1695年のある日、ライプニッツはヘレンハウゼン王宮である貴族と議論になった。どこにも全く同じ葉は二枚と存在しないというのがライプニッツの主張であり、それに相手の貴族が反論したのである。ヘレンハウゼン王宮の庭園には同じ二枚の葉があるはずだと。それで探し回ってみたのだけれど、結局なかったというのである。なんともお茶目というか、変な話である。ヘレンハウゼン王宮庭園は今でも残っているらしく、ドイツの観光案内によるとヨーロッパ屈指の美しい庭園だということである。いつか行って、私も葉っぱ探しをしてみたいものだ。のんきでいい。

だけれど、わざわざ庭園でそんなことをしなくても、葉っぱはどこでも葉っぱである。どこでも同じようにみな葉っぱであって、それぞれ葉っぱらしさと、葉っぱらしさの中でも個性みたいなものを発揮している。なんであなたは葉っぱなの。葉っぱは答えてくれないけれど、葉っぱは葉っぱなのだろう。

そういう葉っぱが、そこらじゅうに落ちている。紅葉した落ち葉は、見た目も主張しているし、踏めばサクサクと音を立てて崩れるので、嫌でもそちらに気持ちが向いてしまう。秋とか冬はそうやって葉っぱが私にどんどん現れてくる。

落ち葉を拾って語りのんびり語り合いながら散歩をしたいですね。