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CORPUS ORGANICUM

日々の雑記。

ビュリダンのロバに餌を食べさせたい

雑記

人生には様々な選択がある。どの学校に行くのか、だれと結婚するのか、どこに就職するのか…そういった選択だけではなく、日々はもっと選択に溢れている。何を食べるのか、何分後に寝るのか…すべてが必然だって言われてもいい。「それではあなたはそれを選択しなかったのか」と言うだけである。

なぜ選択は可能なのだろうか。「ビュリダンのロバ」という、かわいいロバのお話がある。左右に全く同じ条件で餌が置いてあり、そこまでの距離もロバの足の調子も全部、左右対称であったら、ロバは選択できずに餓死してしまうだろうというのだ(ビュリダンのロバについて、ビュリダンが語っている箇所は見つかっていないらしいという豆知識を挟もう)。ビュリダンのロバの仮定がありえないから、そんなことは起きないのか、それともそのような状態がもし仮にあったとしても、ロバは平気で選択をするのか。選択は何に従って生じてくるのものなのか。

ところで、パスカルが「靴のかかと」という、これまたいい感じのお話を書いている。

「なんて見事なできばえだこと。なんて腕の立つ職人さんだろう。勇敢な兵隊さんだこと。」こんな言葉が、われわれの志望と職業選択の出発点にある。「見事な飲みっぷりだこと。控えめな飲み方だこと。」こんなことで、節酒家になったり、酔っ払いになったり、兵隊になったり、臆病者になったりする。

パスカル『パンセ』35節(岩波文庫、塩川訳)

ここでは、私たちが何になるかをどうやって決めているかが取り上げられている。そして、それは誰かの評判なのである。私たちは「なんて腕の立つ職人さんなんだろう」と言われたくて、靴のかかとをつくる職人になったりするのである。栄光への架け橋を渡りたいという気持ちで、どこまでだって頑張れる。

功名は実に甘美なものなので、どんな対象に結び付けられようとも、たとえそれが死であろうとも愛される。

同書、37節

名誉のために人は勇気を出して死んだりもできる。なぜそれほどまでに甘美なものなのか。世の中には命を賭して手に入れたい名誉が存在している。死んで手に入れたときにはもう自分の手はなくなっているにもかかわらず。もしかしたら、死なないかもしれない数パーセントの確率に賭けて手に入れようとしているのかもしれない。そういうものに自身の選択が振り回され続けているという状況はありそうな話である。

パスカルはしかし、それ以外にも選択の道はあるはずだと考えている。

すべては一であり、すべては多様である。人間の本性のうちには、どれほどの本性があることか。またどれほどの職業があることか、それもいかなる偶然によって。誰でも普通は周囲のもてはやすものを選択する。

同書、129節

人間の本性のうちに多様がある。人間は一である。一であることのうちに、多様があることは矛盾するだろうか。しかしここに現にそうあるということが重要なのだろう。一なるものには変化がありえない。変化のないところには傾きがない。そこに動的なものはない。しかし、いったんそこに多様があるのであれば、自身のうちに流れや動きや変化が次々と現れて、何かへの傾きを創出することになる。

じっさい、いくつかの地方は石工だらけ、他の地方は兵隊だらけ云々、といった具合だ。自然は決してこれほど画一的ではない。だからそんな事態を作り出すのは習慣だ。習慣が自然を束縛するからだ。しかしときには、自然が習慣に打ち勝ち、あらゆる習慣--それがよかろうと悪かろうと--のくびきにもかかわらず、人間をその本能のうちにひきとどめる。

同書、634節

問題は名誉や人気、そして迫害や軽蔑などの習慣なのである。言葉は、私たちのうちで習慣となって人々を動かす。「習慣が自然を束縛する」としても、自然(例えば人間の本性)が「習慣に打ち勝つ」ということもやはりありうる。習慣づけられることが必ず起こるとしても、どのように習慣づけられるかを選ぶことはできるのだろう。

習慣のように外的に付与されるような傾きにのみ、選択の起源を求める限りビュリダンのロバは餓死してしまうだろう。ただし、もしそのロバに外的な習慣に打ち勝つだけの自然があったならば、ロバは自ら傾きを作り出し餌にありつくのではないだろうか。そのような自発的な自由を認めることには、たしかに当時重大な問題が含まれていた。とりわけ宗教的な意味で。それでも、ビュリダンのロバを餓死させたくはないと、私は思うのだが。