わたくしごと註解

17-18世紀の西洋哲学および生命思想史を研究しています。執筆者については「このブログについて」をご覧ください。

アリストテレス『形而上学』と現実的なものの捉え難さ

M. ヘッセ『科学・モデル・アナロジー』第4章「アリストテレスのアナロジーの論理」(高田訳)において、アリストテレスがどのように「現実態(エネルゲイア)」を定義しようとしたのかが取り上げられている。というのも、まさにその際に使用されたものがアナロジーの論理だったからである。今回はそれについて、まとめておきたいと思う。

「現実態」や「可能態」といった理論言語は、直接に観察可能なものではない。あくまで理論上の言葉である。それは科学的な理論がそうであるのと同様であろう。しかし、そのような理論を理解しようとするとき、内実を充足させようとするとき、理論はアナロジーに頼る必要が出てくる。新たな形而上学的理論を導入する際も、やはりアナロジーによって、それが私たちの知りうる知識のうちではどのように「理解」可能なのかを提示する必要があるだろう。ここでのアリストテレスの試みは、まさにそういったものであると考えられる(同様に、実体、質料、形相などの形而上学的概念もまたアナロジーによってのみ知りうるものではないだろうか)。

アリステレス『形而上学』Θ巻(ヘッセの訳)において次のように述べられる。

 意味することは、個々の事例から帰納によってはっきりと示される。すべての語の定義を求めるべきではなく、アナロジーをつかまねばならない。すなわち、実際に建てられているものが建てられうるものに対するように、目覚めているものは眠っているものに対している。同じく、見ているものが、視力があっても眼を閉じているものに対しており、質料から分化したものが質料に対しており、そして、完成した品が未完成の素材に対している。こうした対立項の一方によって現実態を定義し、他方によって可能態を定義しよう。

多数の例示なされることによって、類や種による定義とは異なる意味で、アナロジーによる理解が得られることが一文目で述べられている。いわば、帰納的に普遍をつかむという、一般的な意味での帰納法と似たような仕方で、帰納的に「アナロジー(類比関係)」をつかむのである。

ここの例を見てみよう。「建物:建てうるもの」=「目覚めている:眠っている」=「見ているもの:閉じた目」=「分化した質料:質料」=「完成品:素材」=「現実態:可能態」というように整理できる。「」のうちの《関係》がすべてのうちで同様になっていることは理解できるだろう。しかし、枚挙は単に無差別な枚挙では意味がない。そのとき目を向けられるべきは、建物、目覚めている、見ているものなどの質的な類似性である。ヘッセはここで「それらはそれ自身によって「現実的」である」という重要な指摘をしている。

「現実的」であることについて語ろうとするとき、「現実態」ということを言いたくなるのだが、しかし現実態は個物にとって同一の意味で述語付けられない。というのも、「現実態」はカテゴリーの成員ではないということによって、普遍ではないからである。つまり、現実態の定義は現実的なものからのアナロジーによるが、現実的なものは現実態によって知られるという循環に陥ることになる。

この困難は、現実というものの語り難さに由来している。現実的なものについては、「あるものはある」としか語りえないのだろうか。しかし、「あるものがある」ということの背後には、実はそれを保証する「理由 ratio」が控えているのではないか。無ratioの世界では、「あるものはない」ということもありえてしまうのではないか。

考えは全くまとまらないのだが、またゆっくり考えることにしよう。