わたくしごと註解

17-18世紀の西洋哲学および生命思想史を研究しています。執筆者については「このブログについて」をご覧ください。

マルクス・アウレリウスの比喩:『自省録』第3章より

昨日見たように、『自省録』第2章における目立った比喩は「身体」と「宇宙」を類比的に表現するものであった。それでは第3章ではどうなるのだろうか。少し長いが見てみよう。

つぎのことにも注意する必要がある。それは自然の出来事の随伴現象にもまた雅致と魅力があるということだ。 たとえばパンが焼けるときところどころに割れ目ができる。こういう風にしてできた割れ目は、ある意味でパン屋の意図を裏切るものではあるが、しかし或るおもむきを持ち、不思議に食欲をそそる。また無花果も完全に熟すると口をひらく。今にも実の落ちようとしているオリーブの樹においては、実が爛熟に近いために、かえって或る美しさを帯びるものである。穀物の穂がしだれているのや、獅子の額の皮や、野猪の口から流れ出る泡や、その他多くのものは、これを一つ一つ切りはなしてみればとうてい美しくはないが、自然の働きの結果であるために、ものを美化するに役立ち、心を惹くのである

マルクス・アウレリウス『自省録』第3章第2節、神谷訳、下線は筆者)

前半では、マルクスの鋭い観察眼が立ち現れている(それともこのような例は伝統的なものだったのだろうか)。焼いたパンの割れ目に着目する点などは、なんだか「わびさび」的な精神に通ずるものを感じざるをえない。

問題は下線を引いた後半の文章である。ここで挙げられている「穀物の穂」「獅子の額の皮」「猪の口の泡」などはそれ自体では美しいものではないとされる。たしかに、「猪の口の泡」を見て美しさを感じるという人はなかなかいないであろう。ところが、このようなものでも「自然の働き」と結びつけられることで美化されるという。

ここでは「部分が全体を表現する」という修辞的技法が、実在的な世界そのものにも現われ出ているのを見ることができる。佐藤信夫『レトリック感覚』で紹介されているものに従えば、全体と部分には二つの異なる理解の仕方(正確には三つだが今回は二つだけ挙げよう)が存在する。

(Π)人間=頭(および顔)および頸および肩および両腕および両手および胸および腹および背中および腰および……

(Σ)人間=日本人またはアメリカ人またはソ連人または中国人またはフランス人またはドイツ人または……

佐藤信夫『レトリック感覚』講談社、p. 149)

(Π)における全体-部分関係は現実の構造に関わっているが、(Σ)の方は類種関係として理解されている。どちらの理解であっても、全体で部分を表現したり部分で全体を表現したりすることができる。たとえば、例を一つだけあげるならば、「頭数を数える」といって「頭」を数えるというよりは「人間」を数えているというように。

さて、マルクスが下線部で挙げた例はどちらの意味で捉えられるべきだろうか。それは明らかに(Π)の方であろう。宇宙の部分として「穀物の穂」などが挙げられている。このとき、部分は部分それ自体を表示しているだけではない。それを全体に結びつける思考が求められているのである。マルクスは同じ章で次のようにものべている。

まことに人生において出遭う一つ一つのものについて、組織的に誠実に検討しうることほど心を偉大にするものはない。その対象がどんな宇宙に対してどんな効用を持っているのか、全体にたいしてどんな価値を持っているのか[中略]、常々そんな風に個々の対象を見ることほど心を偉大にするものはないのである。 (『自省録』第3章第11節)

私たちは修辞的な技法として、結果によって原因を表現するという手法を使うことがある。悲しむことを「うなだれる」、「なげく」、「泣く」と言う場合がそれである(『レトリック感覚』p. 121)。自然は言葉ではない。しかし、マルクスは自然においてもまたそのような修辞法と同じ構造が働いていることを見ているのである。「穀物の穂のしだれ」は、その原因であるところの全体的自然を表現しているということになる。

『自省録』第3章の比喩は第2章とは異なり、部分と全体の類比ということになっている。部分が全体と結びつくことによって意味をもつというのは、「身体」の特徴でもあるかもしれない。だとすると、宇宙は生き物であり身体であるということ、そしてそこに部分-全体の結びつきが存在しているということ、これが並んだ章で語られるのはとても自然な流れであるように思われる。