p. 360 から。

日々の雑記。

M. ヘッセ『科学・モデル・アナロジー』:観測不可能への歩み

科学の理論というものが, 経験的なデータに「説明」を与えるためのものであるならば, その理論を何らかのモデルを用いて理解する必要があるだろうか. あるいは, その理論を馴染みの対象や出来事とのアナロジーによって理解する必要があるだろうか. 

これは、M. ヘッセ『科学・モデル・アナロジー』(高田訳)の冒頭の一文である。この問題に関して、デュエムとキャンベルという二人を筆頭に物理学者たちの論争があったことが紹介されている。

デュエムは1914年に出版した『物理学理論 La Théorie physique』において、滑車や歯車、ひもやフックなど機械仕掛けのモデルないしアナロジーによって理論を解説しようとする試みは本質的ではないと考えた。たしかにモデルは発見の役にたつかもしれないが、演繹構造をもった数学的な体系のように永続的な意義をもつことはない。

一方で、N. R. キャンベルは1920年に公刊された『物理学, その基礎 Physics, The Elements』において、デュエムの見解に真っ向から対立することになる。すなわち、デュエムたちのように、モデルを理論のための「単なる補助手段」として考え、理論が展開してしまったあとはモデルを捨て去ることができるという人々に対立するのである。キャンベルはデュエムに対して大きく分けてふたつの批判を浴びせる。第一に、「理論が現象の説明であるとするならば, 理論によって, われわれの知性は満足させられるはず」である。満足とは、理論の単純さや経済性といった形式的特徴だけではなく、その理論を実際の事象として理解するための理解可能な解釈が存在していることを指す。モデルが捨て去られてしまうということは、そのような解釈を拒否することにもなる。第二に、理論は「動的な」性格をもっているのであり、新しい理論のために絶えず拡張されなくてはならない。モデルがなければ、新たな現象を予測するということができないのではないか。

この二人の主張は決着のつかないまま現代に至っているが、それでもヘッセが述べるところでは物理学者の多くは本質的にはデュエムのほうに同意している。というのも、量子力学には理解可能なモデルがない(正確には一つのモデルで理解可能なモデルがない。波モデルと粒子モデルを組み合わせるという方策はあるかもしれない)というような事態があるからである。

この本の著者であるヘッセ自身はキャンベル主義の側に立つ。

モデルなしには, 理論に要求されてきた機能のすべてを果たすことができない, とくに真に理論が予測するものにならない, というキャンベルの主張には, 今日でも真理が含まれていると確信している. 

基本的にモデルというのは観測可能な体系として考えることができる。空気粒子の運動は目には見えないが、それを私たちはビリヤード玉モデルで理解することができる(これはホイヘンスの例らしい)。それゆえ、このモデルと理論という考え方は、経験からどのように理論を予測していくかということに関わる。モデルと理論の間のアナロジーは、観測可能な領域と観測不可能な領域との対応をもとに予測を進めていくことになる。

このような、観測可能性と観測不可能性の対は、モデルと科学的理論という対には止まらない。つまり、このようなアナロジーの方法はもともと人間理性が神的な領域を知るための方法でもあったということである。現代では科学的理論に関してのみモデルの有用性が語られるのであろうが、数百年前に遡ればそれは観測不可能な〈メタ〉フィジックな領域に関しても有用であったはずである。

ライプニッツは概念や観念でのみ捉えられる存在についての認識を、「盲目的認識」とか「記号的認識」などと呼び表した(『認識・真理・観念についての省察』)。このような認識は、単純な観念の組み合わせとして考えられており、直観的にそれが何であるかということを語ることができない。それが何であるか語ることのできないものを、人間にとって何かであるというためには、すでに理解されているものから解釈するしかないだろう。例えば千角形はパッと見はいくつ角があるのか理解することのできない図形である。その図形に千個の角が存在しているということを理解するためには、三角形の三つの角のようなものが、千集まっているのだろうということを考える必要がある。そのとき三角形のようにパッと見でそこに千個の角を認識するのではないにしても、千個の角を持つものとして千角形を理解し、千個の角を持つということが三角形という観測可能なものからの類推として成立する(もちろん三角形というのも理念的なものなので、もっと言えば、モデルとして三角形の模型を作るということから始めるべきなのかもしれないが)。

観測できないものについて語ることは、仮説的なものが入り込んでくることは確かである。モデル選択の正しさは、モデルから理論を組み立てていくことにおいて、モデルと理論の往復で不整合が生じてこないということによってのみ保証される。一つのモデルが最後までうまくいくとは限らないのであるが、それでも不整合が生じない限りは遅々としてでも進んでいくことができる。近代形而上学を発展させた人々は、科学革命によって得られたモデルを駆使して捉えがたい領野を推し進めていった。科学の革命が「無限」を生み出し世界の底を抜いてしまったことは確かかもしれないが、同時にその革命によって得られた技術は、人々にモデルを提供し、形而上学的領野へと進む方策をも提示したのだと思う。

 

Models and Analogies in Science

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科学・モデル・アナロジー

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