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CORPUS ORGANICUM

日々の雑記。

タイムトラベルな文章

雑記

なお、このあと、提喩の定義についてはいくらか込みいった検討に立ち入ることとなるので、わずらわしい定義問題などに関心のない向きは、ここから一五六ページまで飛ばして読んでくださってもさしつかえはない。 (佐藤信夫『レトリック感覚』 p. 140(単行本版))

本を読んでいると、ときどき上のような文章に出会うことがある。「上のような」というのは、つまり「一五六ページまで飛ばして読んで」というように、これから読むであろう箇所を指示するような文章である。このような指示は、読者としてはとてもありがたいものであると思う。しかし、ありがたいと同時に不思議な感じがしてくる。

どういうことか。著者はそこまでの間、私を先導するかのように一緒に議論の道を歩いてきてくれた。ところが突然振り返って言うのである。「どうする?一五六ページまでは読まなくてもいいけど。」そこで、著者が私と同じ立場ではなく、すでのこの道を歩き終えてこの先に何が起きるか知っているのだと気づく。当然のことなのだが。

論文の書き方として、「〜については、後で(〜章で)述べることにする」という言い回しがある。山内史朗『ぎりぎり合格への論文マニュアル』によれば、このような表現は「ある事柄について説明できないので、あたかも説明したかのような印象を与えて、文章を書き進めたい場合」に使うと良いということである(もちろん本気で言っているとは思わないが)。このような表現は、さきほどの「一五六ページ」文とは少し異なる。「後に述べることにする」というのは、まだ先を知らない人でも言うことのできる言葉だ。この限りでは、いまだ読者と著者の距離は離れていない。議論を一緒に進めているのである。

ところが、「一五六ページ」文が登場すると、あたかも著者はタイムトラベラーのごとく現れてくることになる。実際、佐藤信夫は後からこの文章を、一四〇ページに挿入したことは間違いないだろう。

このようにタイムトラベルが可能であることは、一体何かを意味するのだろうか。すごくどうでもいいことかもしれない。「これがモノを書くということの特徴の一つなのだ」ということはできるだろう。そこから何か話を広げるだけの話のネタがないのが悲しいのだが、ただただ「一五六ページ」文の不思議な感覚を味わうというのもオツなものである。

 

レトリック感覚 (講談社学術文庫)

レトリック感覚 (講談社学術文庫)

 

 

レトリック認識 (講談社学術文庫)

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レトリックの記号論 (講談社学術文庫)

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