わたくしごと註解

17-18世紀の西洋哲学および生命思想史を研究しています。執筆者については「このブログについて」をご覧ください。

やらねばならぬこと

よく言うことだけれど、「やれ」と言われるとやりたくなくなる。これは単にひねくれているから、ということなのだろうか。やるつもりがあったにもかかわらず、やれと言われるとやりたくなくなるというのは、本当にやるつもりがあったのだろうか。

実際、やるつもりがあったのかどうかは、決定できない。本人の申告によるしかないし、さらに言えば申告さえも過去の自分について語るという距離を含み込んでいるがために、正確ではないかもしれない。現実に生じてきたことは、「やらない」ということだけなのだから、「やる」つもりだったかどうかは現実に起きたことに関して考えるかぎりは置いておくことができる。

どうやら生きているとやらねばならないことに出会ってしまうようである。そういうものは、現実としてやらなければ、「やる」つもりだったとしても、強く責められる。やらねばならぬことは、やるしかないということになる。

やらねばならぬことは避けて通れるだろうか。たいていのやらねばならぬことは、一時的に逃れることができるかもしれないが、やらねばならないが故にまた現れてくる。それに、逃げても逃げてもやらねばならないことはついてくるもので、やらねばならないことから、逃れうるとしたら死ぬということになる。

〜しなければ、〜〜という結果がない。という小さなことでさえ、結果を求めるために〜をしなければならない。別の結果を求めるとしても、ほかの何かをしなければならない。常になにかやらねばならぬことがつきまとってくる。その内容は違えど、やらねばならぬという意味では同じものたちが追いかけ回してくるのである。

これはつまり、選択できたとしても、選択自体を拒否することはできないという状態があり、何を選んでも、やらねばならぬということから逃れられない状態であろう。

もちろん、だれかに強制されることと、自身でする選択は違うかもしれない。それでも、やらねばならぬということだけでいえば、どちらもやらねばならぬということなのだろう。

結局選択は「やらねばならぬとしたら、どれがいいか」ということになる。やらねばならぬことのうちで、何か選択をするとしたらどれがいいのか、どれがマシかくらいのものであるように思う。

どうせやらねばならぬなら、面白いものがいいなぁという気持ちだ。