わたくしごと註解

17-18世紀の西洋哲学および生命思想史を研究しています。執筆者については「このブログについて」をご覧ください。

坂本賢三『機械の現象学』:「機械」とは何か、そして近代の知識とは何か。

『機械の現象学』という不思議な本がある。今からやく40年前の本であるが、後にも先にも「機械」それ自体に焦点を当てた本というのは少ないのではないか。私はたしか金森修先生の本で紹介されていたのをきっかけに手にいれたのだったと思う。

「機械」ということで何かを考えようというときのスタンダードとして、まず第一にはパオロ・ロッシ『科学者と機械』という本が挙げられるだろう。ただしこの本は、科学史的な観点から初期近代における科学や技術の発達と思想の関わりを描いた本である。それ自体非常に重要な研究であることは間違いないが、「機械」それ自体について考えるということとは少しずれる(もちろん、ロッシの本のような知識を背景に考えることが必要なのであるが)。

『機械の現象学』の著者である坂本賢三という人は、『「分ける」ことと「わかる」こと』(講談社現代新書、のちに講談社学術文庫)の著者としてよく知られているだろう。物理学から入って哲学を始めた科学史系の研究者である。

私たちの身の回りは機械に溢れている。これを書いているパソコンも機械だし、いつも持ち歩いているスマホもそうだ。移動に使う車や電車、自転車もそうだし、生活の中の家電もやはりそう。家を作るための道具も機械だろうし、周りを見渡してみて、機械と機械によってつくられたもの以外を見つけるのは難しい。お土産物屋さんに行くと「手造り」の品物がありがたい感じで陳列されているが、こういうことからもわかるように、手造りの方が今では珍しいのかもしれない。ただし、「手造り」が機械によって造られたものではないということはできないかもしれない。「手」だって、ある意味では機械だからである。もし義手で造られたものがあったら、それは「手造り」ということになるのかどうか、問うてみなくてはならない。

古代より自然と技術ということが対比されてきた。今では技術によって作られたものに囲まれながら生活しているので、自然は窓の外に少し見ることができる程度である。こういう時代にあって、自然とは何かと考えることと同じくらい、この周りに溢れた技術やそれによって作られた機械というものについて考えることは重要であると思われる。

「機械」それ自体に焦点を当てるということは、どのようにしてなされるのか。そこで二つの道がある。一つは科学的な分析であり、一つは意味の探求である。機械はそれ自体すでに「つくられたもの」であり、時間的・空間的な世界の中につくられたものであることを坂本は指摘している。

[機械は]自然的見方によって十分に分析され、研究され、それによって製作されている。むしろ、科学の方が機械をモデルにしてつくり出されたといってよく、機械は科学的方法の根拠であるといってもよいのである。したがって、自然的見方の出発点である機械が哲学的分析から離れたところにあり、哲学的考察をいわば拒否しているかのごとき姿をとっているのは当然であると言わなければならない。 (『機械の現象学』序論)

すでにそこにあるものを考えるということは、意識を離れては存在しないような「科学」や「技術」や「目的」や「手段」といった概念について考えることとは異なる。機械はすでにそこにあるということによって、工学的であったり、経済学的であったり、社会学的な分析の対象となることが自然なのである。

坂本はここで、科学的な探求は「機械が我々人間にとってどのような意味を持つのか」という問いを答えを与えないと述べる(フッサールのことが念頭にあるのだろう)。意味ということを考えるためには、別の方法をとる必要がある。

こうして機械に向けられた意識に現れてくるものを忠実に見て行くことによって、これまで工学的・経済学的な、一言で言えば科学的な方法で切り捨てられていたもの、かくされていたものを見出そうというのである。 (同箇所)

こうして、現象学的な機械の考察が始まっていく。全体としては機械とは意識にとってどのようなものとして現れてくるのかということを次々と描いていくことによって、機械は人間自身の外化であるということが明らかになっていく。それ自体はそこまで面白い結論ではないのかもしれない。しかし、そのような結論を出すまでの機械の特徴を描き出す作業は「機械」というものが何であるかを考えようというときの、重要な足がかりとなるだろう。

「機械」とは何かということを描き出す作業、つまり「機械」を「機械でないもの」から区別する作業は非常に難しいように思う。というのも、例えば、鉛筆削り機は明らかに機械だが、えんぴつは機械ではないように思われたりするからである。時計は明らかに機械だが、時計を構成する歯車はそれ自体だけ見たら機械なのだろうか。こういう困難にぶつかっていくことになる。そうしたときに、意識にあたえられたものをヒントに考察を推し進めていくというのは、一つの方法であろうと思う。

どのようなものが「機械」として意識に現れてくるのか、を考える。これだけを聞くとたしかに、不思議な本のように思われるかもしれない。しかし、歴史的に見ても、ベーコンなどが提唱する帰納法的な科学の登場以来、科学理論は機械的経験によって作られてきたともいえる。機械とは何か、ということを考えるということが、科学とは何かということを考えることでもあり、近代における知識というものの形成を考えることにつながっていく。このように非常にスケールの大きな話なのだと気付くと、私というものの意識を考える次元が開いていくことになるのである。

 

機械の現象学 (1975年) (哲学叢書)

機械の現象学 (1975年) (哲学叢書)