わたくしごと註解

17-18世紀の西洋哲学および生命思想史を研究しています。執筆者については「このブログについて」をご覧ください。

好みと歴史性

私が生活するということには、何かを選ぶということが常につきまとっている。選択の方法には様々なものがあるがどの選択方法をとるにしても、選ぶことが可能である場合には選びたいと思ったものを選ぶということになるのだろう(方法に関しても私たちは選択をしている)。

何かを選択するとき、選びたいと思ったから選ぶのだとしよう。それでは、なぜそれを選びたいと思ったのだろうか。音楽を選ぶとき、恋人を選ぶとき、食べ物を選ぶとき、何を基準にして選ぶだろうか。昨日食べたものを今日も食べたくないという意味では、頻度が関わってくるだろうし、塩分を摂りすぎるという場合には、健康が関わってくることもあるだろう。そういうものをいろいろ考慮した上で、選びたいと思うのだろうが、そのなかに「好きだから」というのは入ってこないだろうか。

「その音楽を聴くのはなぜか」と聞かれて、「この音楽が好きだから」と答えるのは自然だと思うし、「〜で〜なところが好きだから」とより詳しく答えることもあるだろう。しかし、問題はそれがなぜ好きなのかということである。なぜ「〜で〜なところが好き」なのだろうか。「好き」という感情の根源はどこにあるのだろうか。

母親や父親の記憶が、理想の男性像や女性像に結びついているということが言われたりする。乳幼児期の記憶はたしかに強くインプリンティングされているらしく、その時期に関係した人々が自身の好みに強い影響を与えるということはありそうだ。そのような記憶は、人や物と関係して生きて行くなかで少しずつ変化していくことになる。こう考えるのであれば、好きという感情の根源は自分のいままでの無数の経験からの予測不可能な帰結ということになるのかもしれない。

さらに疑問が出てくる。そうだとして、なぜ好みは常に自身の過去の経験から生じてくるのだろうか。それは歴史性と言い換えてもいい。自身の歴史性によって自身の好みが規定されるというのはなぜなのだろうか。そうでないとしたら一体どんな選択肢があるか考えてみるならば、すぐ出てくるのは好みが歴史性に関係なく存在するということである。たいていの人間は言葉を習得する能力を生まれたときから有していると言われるように、たいていの人間は「好きになる能力」というのを生まれたときから有していてもよいのではないか。ただこの場合、何を好きになるのかは歴史性に規定されることになるのだが。しかし、もっと言えば「この音楽を好きになる」ということが生まれたときから決定していてはなぜいけないのだろうか。

もちろん、私自身の経験上から言っても、好みは変化する。変化するということは好みが歴史性によって何らかの影響を受けているということである。だから、好みのすべてが生まれつきであるということはないだろう。しかし、影響を受けるためには影響を受けとる何かがなくてはならない。そういう意味での非歴史的な好みというものがあるとしたら、いったいそれは何なのか。それともそんなものはないのだろうか。

そして、例えば、全く記憶を失ってしまった人間がいるとして、その人は何かを選ぶ際に「これが好きだから」という理由で選ぶことができるのかどうか。これは疑問である。