わたくしごと註解

17-18世紀の西洋哲学および生命思想史を研究しています。執筆者については「このブログについて」をご覧ください。

高橋澪子『心の科学史』の序説に関する覚書

心理学の本というのは、新書レベルのものを除いてはほとんど読んだことがなかった。詳しくない分野の本を読もうと思ったときに、何を選ぶかというのは難しいと思う。ちょうど新刊コーナーを歩いていたら『心の科学史』という文庫が置かれていたのでパラパラとめくることになった。心理学史という方向からなら、ふだんは哲学史のことを考えている私でも自然に入っていけるような気がして購入した。

高橋澪子『心の科学史 西洋心理学の背景と実験心理学の誕生』(講談社学術文庫, 2016)は、もともと1999年に東北大学出版会から刊行されていたものの文庫化である。

まず開いて驚いたのは、その注の厚さである。全部で423頁あるのだけれど、251~388頁にかけてたくさんの細かい注が並んでいる。それは文献案内であったり、学説批判であったり様々な内容なのだが、気になる部分に関してかなり助けになってくれることだろう。

目次を見ると全体の構成は2部構成である。しかし、実際読んでみると、序説も非常に重要であるため内容的には3部構成と言ってもいいように思われる。序説は「近代心理学史概観」、第1部「全近代ヨーロッパにおけるプシュケー論とプネウマ論の変遷」、第2部「十九世紀ドイツの科学思想とヴント心理学の論理」と大きく分かれている。序説に関してメモ書き程度のものを書いておこうと思う。

 

序説について。ここで著者独自の心理学史観が提示されている(とはいうものの、独自なのかどうか他の心理学史研究者のものをちゃんと読んだことがないので判断しかねる部分ではあるけれど、書いてあることにしたがうならば)。一般的な心理学史において、「近代科学としての」心理学の誕生は19世紀に実験心理学のためのカリキュラムが大学で成立することを契機として考えるできるという。このような典型的な心理学史観はエビングハウスの「心理学は長い過去を持っているが短い歴史しか持っていない」という言葉に代表される。近代的心理学は近代的方法論の採用、すなわち「〈もの〉の世界と類比的に〈心〉の世界を“要素に分析”することに決め、その分析や総合の方法として加算や減算や微分積分の手法を使用」することに始まる。そのような意味での歴史はエビングハウスが言うようにそう長くはないということである。

ところが、著者の立場はこの一般的心理学史観とは全く異なっている。19世紀の心理学は、「実験的方法を適用」したことにおいては新しいものであったかもしれない。しかし、その「“心”観に関する限りは」何らそれ以前の心理学と異なるものではない。つまり、「心をいかなるものとして定義するかという認識論的な側面から見る限り、19世紀の実験心理学には取り立てて新しい思想、新しい固有の“心”観は見あたらない」のである。それ以前の心理学においても、心は個人の意識として捉えられていたのであり、一連の流れの中で19世紀心理学もある。方法論的な変化は、その方法が適用される対象の変化とは異なるという点に注意しなければならないのである。

著者は序説の冒頭で次のように述べる。

心理学が一実験科学ないし個別科学として制度的に確立されるのは、周知の通り、いまから一世紀あまり前のことである。しかし、厳密な意味における近代科学としての実験心理学の論理が成立するためには、さらに半世紀近くを経て、一九三〇年代末に完成する「行動主義革命」とでもいうべきものを通過しなければならなかった。

著者自身も認めるように、20世紀の行動主義心理学の登場は、前世紀における実験心理学の登場に比べると大きな方法論的な変革は伴っていない。しかしながら、行動主義革命においてはむしろ、その対象において大きな変化があったということが指摘される。それまで実験心理学においても暗黙の了解となっていた、「内観」という方法の否定が20世紀に起こった。19世紀の分析的方法論は内観によって得られた対象に対して適用される方法であったのに対して、その内観ということの否定は、その対象の変更でもある。「そこでは被験者はもはや自分自身の内面的世界の“観察者”ではなく、与えられた刺激に反応する一個の被験“体”」である。このような対象の変更によって、心の「私秘性」を排除することが可能になる。心という客観性を保証しえない対象を捨てさることで、なんとか科学としての立場を保とうとすることが、行動主義革命として広がっていったのである。

こうして20世紀に現代的な意味での科学的な心理学が完成することになる。これが、大きな流れであるが(序説ではさらに、ゲシュタルト心理学が同時に登場していたにもかかわらず「革命」とはなりえなかったのかについて、そしてその後の新行動主義や認知心理学などの、内観と分析の統合の道が紹介される)、著者はさらに心理学はもう一度革命を迎えることで新しい段階に入ることができると考えているようである。「『科学』ではあっても、もはや『近代科学』とはその意味をまったく異にする新しい心理学」の成立によって、科学的心理学は新たなフェーズに入りうる。たしかに、このような主張はどのような業界でも突飛なように思われるのであろうが、しかし重要な指摘であることには間違いないのではないか。そのような変更は、「近代科学的である」という要請に応えるために、いつのまにか対象までも変化させてしまったことに対する反省があって初めて成り立つものである。この『心の科学史』という本の序説はそのことを知らしめるという意味で重要であろう。

 

以上が、メモ書きのような感想のようなものである。序説だけについてとりあえず書いてみたが、この本ではその後でアリストテレスのプシュケー論などに触れていくことになる。内容は多くの哲学系の古典的研究書によっているところがあるし独自の見解というよりは、まとめのようなものである。けれども、心理学の本においてこのような紹介がなされることには意味があると思われる。心理学史研究においてプシュケー、すなわち西洋哲学史上の魂という概念が意識にどのように結びついていくのかということは、非常に興味がある。意識と魂の間には断絶があるように思う。生を基礎付ける存在と、生において現れてくるもの、それぞれにおいてそれぞれ固有の性格があるのではないか。

ともかく、こういう研究書がどんどん文庫化して出てきてくれるのはありがたい。読むことが追いつかない点は悩ましいけれど、それでも。