わたくしごと註解

17-18世紀の西洋哲学および生命思想史を研究しています。執筆者については「このブログについて」をご覧ください。

ためいき指南

なんとなく最近ため息をつくことが多い気がする。ため息のやり方は簡単だ。まず、ぼーっとして、目をうつろに、そして口を少し開けたら、さっと息を吸い込み、ゆっくりとしかし最後まで吐き出す。「はぁ」という声のようなものが出れば成功だ。

口は話す以外にもいろんなことを表現する。ねむい的にはあくびが出る。落語の方では「欠伸指南」という演目があって、欠伸の師匠にところに欠伸を習いに行くという、設定だけでも滑稽なものである。欠伸は意図的にやろうと思っても、それこそ師匠に習わなければなかなか難しいのだが、ため息のほうはごくごく簡単なものである。

ごくごく簡単なのは、いつも私たちがため息をしたい状況にあるからなのか、それとも、単純にため息が簡単なのかどちらかだろう。そこはどうも両方な気がするが、しかし、ため息をする理由ならいくらでも見つかるものである。

ところで、ため息はどのようなときにするのだろうか。悲しいときだろうか。苦しいとき?嬉しいときでないことは確かだ。嬉しいとか、楽しいとか、興奮しているとか、そういうときにため息というのは似合わない。どちらかというと落ち込んでいるときだ。落ち込んでいるときの、さらにどのような場合だろうか。この辺は人によるのかもしれないが、自分のことを反省してみると、ため息をつくときに解決可能な苦しみが理由だということは少ない。むしろ、どうにもならなかったり、どうしたらいいのかわからないときに出るのが、ため息だという気がする。

どうにもならない困難、根源的にはそういうものは滅多にないと思っている。ただし、普通に考えるとそういうものに囲まれて生活しているというのが実感である。言葉にしても仕方がなく、ただ受け入れるしかないようなことに囲まれている。ため息はそのような出来事に遭遇したときにでてくる。そういうものに対するささやかな反抗が、ため息なのではないかと思う。

ため息をついたら、そのことは本当に解決不可能な困難なのかをよく考えてみる必要がある。それはある意味では、困難の途方もなさに少し休憩をし始めた合図なのだから。考えるだけならタダである。それでダメでももともとである。