わたくしごと註解

17-18世紀の西洋哲学および生命思想史を研究しています。執筆者については「このブログについて」をご覧ください。

宇宙は一匹の生き物だという考え方

宇宙はひとつの生き物で、一つの物質と一つの魂を備えたものである、ということに絶えず思いをひそめよ。またいかにすべてが宇宙のただ一つ感性に帰するのか、いかに宇宙がすべてをただ一つの衝動から行うか、いかにすべてがすべて生起することの共通の原因となるか、またいかにすべてのものが共に組み合わされ、織り合わされているか、こういうことを常に心に思い浮べよ。 (マルクス・アウレリーウス『自省録』40、神谷訳)

マクロコスモスとミクロコスモスという言葉がある。私たち生き物は、それぞれ一つの宇宙のような存在であり、私たちの細胞もまた宇宙であり、世界は宇宙の入れ子になっているということを表現する。生物が宇宙である、とすれば、宇宙も生物であるというふうに考えることは不思議なことではないかもしれない。 

 宇宙が一つの生物であるということは何を表しているのか。それは、単なる比喩なのか。メタファーということで、考えなければいけないのは完全な置き換えと、不完全な置き換えだろう。まず、文章の美しさを高めるために言葉置き換える場合(例えば、「空が泣いている」が雨の降る様子を表すように)、そして完全に語ることのできないものについて類似のもので代用する場合(例えば、「生物は神の機械」という言葉。ライプニッツが『モナドジー』64節で用いる)。

それでは、「宇宙が一つの生物である」ということは、どちらのメタファーに属するだろうか。私が思うに、それは後者の意味で用いられるものではないか。宇宙とは何か、という非常に難解な問いに出会ったときに、私たちは一瞬の逡巡のあと、「生物のようだ」と答えることができる。それは、宇宙の全体はともかく、その一部分、つまり私たちが探求することのできる範囲においては少なくとも生物的であるからだ。環境はそれぞれが関係しあい、生態系をつくりあげる。地球の裏側で起きた出来事は、少なからずこちらにも影響を与えるかもしれない。すべては有機的につながっている。これらのことは、非常に生物的であるといえるだろう。

だから、全体を知ることのできない宇宙についても、その一部からどうやら「生物である」と判断することができる。ただし、これは賭けである。宇宙の知られざる場所では、全く生物的ではないかもしれないからである。

「宇宙は一つの魂を持っている」ということができるのは、宇宙が一つの生物である場合だ。宇宙は複数の宇宙としての生物の寄せ集めかもしれないし、そもそも宇宙というのが一つの生物の単位として不適切であるかもしれない。こうして問いは「生物とは何か」ということに移っていくことになる。生物が明らかになっても、宇宙がそれかどうか明らかにならないと思うだろうか。いやしかし、宇宙の分析はどこまで行っても生物的であるだろうし、生物の分析はどこまで行っても宇宙的であるという予想がつく。結局この方向性は「宇宙は一つの生物である」という考え方を補強し続けることになるように思われる。

もしこのテーゼを否定する可能性を考えることができるとすれば、それは実に形而上学的な問いとなっていくだろう。魂が生物を生物たらしめるとすれば、魂とは一体なんなのか。魂ということで、私たちは一体なにを考えてきたのか。この問いである。

答えはない。少なくともいまは。しかし、非常に興味深い。