わたくしごと註解

17-18世紀の西洋哲学および生命思想史を研究しています。執筆者については「このブログについて」をご覧ください。

効率的な仕事と手数の少なさ

私はパン屋さんでパンを作るという、極めておしゃれなバイトをしている。お花屋さん、ケーキ屋さん、カフェ屋さん、辺りに並ぶ「なんかいいなぁ」系バイトのうちの1つであろうと思う。ところが、パン屋さんの場合、早朝がけっこう忙しい。開店前に品物を揃えなくてはならないため、多少の焦りとともに動き回る必要がある。

忙しいときには、何が大切かという効率よくやることである。同じ種類の具材を使うものは同時に作ったり、できるだけ動線を短くしたり。効率をよくすることは、仕事を楽にするということである(作る量が決まっているのであれば)。こうして最適化していくことで、最小限の労力でバイトを行うことを心がけている。

しかし、たまにこれが一番効率が良いだろうと思った方法がそうでないということがある。かなり細かい手順なのでここでは説明しがたいのであるが、簡単に言うと、一つのパンを動かす回数を最小限に減らせば、単純に手数が減り効率がよくなると思っていたのだが、どうやらそうではないらしいということである。そのパンにかける手数を増やすと逆に効率がよくなるという事態に遭遇したのだ。

なるほど、険しい山を登るときも、少し遠回りしてでも最適な道を選ぶことが効率よく登ることにつながる。混みあったエレベーターや電車で途中で降りようと思って乗る場合、最後に乗って扉の前を陣取る方が降りるときに効率が良い。

多くの出来事は目指す結果を得ることと、その目指された行為に向けて行為をし始めることの間に幾らかの行為の連鎖が存在している。あまり考えずに動く場合、この最初の行為の入り口部分についてのみしか頭を働かせていない。基本的には「早いこと」「手数の少ないこと」「大きいこと」などはまぁ良い結果や無難な結果を生み出すことが多いことは事実だろう。しかし、その始めた行為が目指す結果にたどり着くまでの間にどのような道を経るのかということまで含めて、大きな意味で一つの「行為」ということもできるだろう。

大きな意味での「行為」の最適化には、多少の可能性の考量と想像力が求められる。しかし、これを悩んでばかりいたら、そのせいで効率が損なわれてしまうということもあるかもしれない。すべてを想像力に任せるのではなく、一旦仮説として打ち立てたあと、実際にそれをやってみるというのが早いのかもしれない。理論は理論だけで確認しようとすると難しいが、実際に動かしてみるとわかるということが多々有る。

こうして、どうにかバイトをギリギリまで楽にしたいということばかり考えている日々である。