わたくしごと註解

17-18世紀の西洋哲学および生命思想史を研究しています。執筆者については「このブログについて」をご覧ください。

五百羅漢と顔

散歩日和だったので、川越の喜多院にある五百羅漢を見に行ってきた。以前に一度行ったことがあったのだけれど、500体以上もある石造をひとつひとつ眺めて歩くのはいつでも楽しいことだと思う。

喜多院の歴史は、奈良時代にまでさかのぼるともいわれ、少なくとも平安時代には寺として存在していたという。面白い言い伝えもいくつか残っている。たとえば「山内禁鈴」というものがあり、境内で鈴を鳴らすと大蛇の祟りがあるという。境内では修学旅行中の生徒たちを見かけたが、彼らはカバンによく鈴をつけているような気がするので、たしょう心配になりもする。

喜多院には、1782–1825年頃にかけて建立された「五百羅漢」という石像群が存在している。大きな釈迦如来を中心に、阿弥陀如来地蔵菩薩十六羅漢と五三三尊者など全部で538体の石像が鎮座しているという。

五百羅漢は日本各地で見ることができる。五百羅漢というのは仏陀の弟子たちのことらしいが、偉い僧たちも人間的で個性豊かなものである。

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みんなおもいおもいの行動をしている。寝っ転がる僧、鼻をほじる僧、仏像を見せびらかす(?)僧…。僧たちの日常が彫られていて、非常に面白い。私は、以前にもどこかの五百羅漢を見に行ったことがあったと思うのだが、そのときはこんなにユルくなかったような気がする。

五百羅漢の売り文句としてよく聞くのは「あなたの理想の顔に出会えるかも」である。なるほど、どの顔も絶妙に違っていて、見ていて飽きることがない。眉毛の太い僧もいれば、顔がシュッとした僧もいる。理想の顔に出会えるかどうかはさておき、人間の顔の特徴を捉えてこれだけたくさん並べるというのは、人間の人間に対する観察眼の鋭さを感じる。

こうして、顔から顔へ眺め続けていると、どうして人間はこんなにも顔が違うのだろうと思わされる。いや、そうではない。他の動物も、植物も、石も、何もかもそこに存在しているのなら似ていることがあっても大体どこか異なっている(全く同じものはこの世のふたつとない)。それでもなお、人間の顔の違いが私にとって重大の意味を持つものとして現れてきているということが問題なのである。

やろうと思えば、この僧たちを全員並べて、名前と顔を一致させることができるかもしれない。ところが、同じ犬種の犬を五百匹並べて、名前と顔を一致させることはできるだろうか。できなくはないかもしれない。だけれど、明らかに人間の時よりも大変であるように思う。人間の人間に対する感覚の鋭さは生得的なものなのか、それとも多くの人間と触れ合うことで獲得されたものなのか。それが、非常に便利であることはたしかなのだけれど。

それにしても、五百羅漢を見た後に食べた蕎麦が美味しかったなぁ。