わたくしごと註解

17-18世紀の西洋哲学および生命思想史を研究しています。執筆者については「このブログについて」をご覧ください。

冬のイメージは電車

私にとって、冬の主要なイメージの一つとして「電車」というのがある。冬の電車はとても印象的なのだ。冬の電車は温まり過ぎた足元のヒーターと、ぬるい空気、そしてまっ白く曇った窓ガラス…それに年末だと、みんなのソワソワした空気も一緒にどこかへ走っていく。

まっ白に曇ったガラスは、電車それ自体を世界から浮遊させてしまうように思う。私たちが、この世界にいるという確信は、この世界にいるということの知覚から生まれる。真っ暗闇の中に一人ポツンと放り出されたら、きっと私自身が世界と呼んでいいものの中にいるのかわからなくなってしまうだろう。まっ白く曇ったガラスは、電車の外側を消し去ってくれる。揺れる地面と私と暖かい空気しかない世界が完成する。

窓に絵を描いてみる。どうやら外は世界のようだ。そんな当たり前のことをおかしく思いながら、「外は寒いだろうな」と心の中でつぶやく。いい感じだ。外が寒くても、私はどこかに向かっていて、私の行くべき場所がこの電車を降りた先にある。

なんとなく思うのだけれど、「移動」というのはとても気持ちいのいい行為ではないか。移動中は常にどこかからどこかへと向かっていて、どこかにとどまらない。止まることは移動ではないから当然なのだけど、移動の「どこかへ向かっている」という感じはある種の希望だ。向こうに行けば何かいいことがあるかもしれないと思っている。私は、楽観的なのか、阿呆なのか、希望を持ちすぎる傾向にあることが私自身によって知られている。だから、移動というのが結構好きなのだ。

そうして、冬の電車はなんだか胎内にいるような(知らないけど)気持ちになるし、移動そのものが心地よい。冬の電車は、希望と心地よさという、素敵なものの寄せ集めみたいなものなのだ。

まだ、季節的には少し早いのだけど、そういう電車に早く乗りたいものである。