わたくしごと註解

17-18世紀の西洋哲学および生命思想史を研究しています。執筆者については「このブログについて」をご覧ください。

絵を描く人がいると絵ができる

ここ15年くらいの話だけれど、絵というものが常につきまとってきた。というよりも、私自身が絵につきまとっていたのかもしれないが。そして、「描かれた絵」につきまとっていたのではなくて、「絵を描く人」につきまとっていたのかもしれないが。

初恋の人(いちおう、断っておくと初めて好きになった人と初恋の人は違う)は、私の記憶の中ではいつも絵と一緒にいる。彼女は絵を描くことが好きで、私は彼女の描いた絵を見るのが好きだった。

絵はいつも描かれた後だった。絵がそこにあって、彼女の名前がその下にあった。絵は、誰かが描いたものである。たぶん誰も描いた者がいないような絵の具の染みは、絵というよりは汚れだし、それを絵と呼ぶためには、誰かが「これは絵です」と宣言しなければならない。描くということは、筆を振るうことだけには還元されないとは思うが、それでも誰か「絵を描く人」がいるから絵があるのだと思う。

私は彼女が絵を描いている姿を見たことがない(落書き程度ならあるけれど)。だから、彼女がどういう顔で絵の具を絞り、色を作って、筆を水で湿らせているかを知らない。どういう早さで、どういう傾きで、どういう時間に…そういうことを全て想像する。この絵があるということは、どこかで彼女がこれを描いたということである。

昔の哲学者たちのある人々は、神によって作られたこの世界の素晴らしさを解き明かすことで、神自身の素晴らしさがよりよくわかると考えた。作られたものは作ったものを何らかの形で表現するのである。これと同じ形式で、私は絵というものを考えている。絵があるということは、誰かがそれを描いたということである。絵の素晴らしさが、その絵を描いた人の素晴らしさを表現するかどうかは知らないけれど(道徳的な素晴らしさと、技術的な素晴らしさは別物かもしれないから)。

絵を描いてくれるというのは、とてもありがたいと思う。本を書く人が、自分の思いや思考を言葉にするように、絵を描く人は、その人自身の何かを描くのだろう。自然が作り出す断層の模様や、海の青、砂漠の砂のうねり…それらのものものは、ある人々にとっては神の素晴らしさを示すのかもしれないが、私にとってはそれ自体で綺麗なものにすぎない。一方で、あらゆる生物が行う表現、とりわけ人間の芸術や文化と呼ばれるものが作り出した表現の数々は、その作者自身の何かを映し出す写像である。そういうものがあるから、私はその人自身の中に何かがあることを知ることができる。無からは何も生じない、という格律がそこにある。

 

私はこの絵の向こうにあなたがいることを確信した。むしろ、この絵を通してしかあなた自身に触れることはできないのかもしれないと、今ではそう考えている。