わたくしごと註解

17-18世紀の西洋哲学および生命思想史を研究しています。執筆者については「このブログについて」をご覧ください。

恋がわからなくても愛着はわかる

「恋がわからない」「好きという気持ちがわからない」

そう言ってくれる人にたまに出会う。もどかしいような、わかってほしいような気持ちになる。だけれども、それよりもまず嬉しいと思う。それは、とても真面目だし真剣に考えてくれていることから出る言葉だから。

「好き」ということは在る。在るけれども、それが何か説明できない。他の感情からは区別できるとしても、それ自体では理解できないものである。私は他の気持ちから区別された何かを「好き」と名付けて、「好きです」とあなたに伝える。でも、あなたは「本当に好きかわからない」という。この他の気持ちから区別された何かが、「好き」であるかどうかということを客観的に言うことはできるのだろうか。それは、「赤」「青」「黄色」のような、直接指差して「これ」と言わなきゃ理解できない何かなのかもしれない。

「本当に好きかわからない」と言われると、私も自信がなくなってくる。ただし、それが「好き」じゃないとしても、明らかに他の感情から区別して感じている以上は「あなたに対して特別な感情を抱いている」ということは言える。それでも、あなたは「これが特別な感情かどうかわからない」と言うかもしれない。たしかに、今までは感じたことのなかった感情を明日から毎日のようにいろんな人に感じるということがあるとしたら、特別かどうかなんてわからない。結局私も好きということはよくわからなくなってしまう。

「恋がわからない」というのは、なんとなくわかる気がする。恋は最初はちいさな芽のようなもので、ちゃんと見つけて保護してあげないといけないということがある。中には突然大樹のような恋にめぐり合うことがあるかもしれないが、そうでもなければ、大抵は見逃してしまいそうなちいさな芽なのである。そういうものを目ざとく見つけて、育てていくとやがて、恋っぽい感じになる。

恋を育ててみると、それが本当に恋なのかどうかわかるかというとそうでもない。そもそも、恋というのがなんだかよくわからないのだから。ただ、特別な関係を築いたことはたしかである。恋がわからないとしても、ただ私に馴染んだという事実だけはある。関係は時間によって太くなる。仲が悪くなろうとも、良くなろうとも、関係の束が時間を経る毎に太くなっていく。

というわけで、「恋」とか「好き」とかはよくわからないのだが、「愛着がある」と、あなたは言う。私はそういうところが好きだと思うのだが、本当にこれが好きなのかというのはわからず。結局、どんどん関係とそれに伴う愛着が積もり続けていくことになる。「愛着」は「好き」という言葉のよくわからなさを、理解できる範囲のものにしてくれるように思う。「あなたがいなくなったら嫌だなぁ」という気持ちのなかにある、「嫌」という気持ちは「好き」の「好」と対になるものだろう。しかし、不思議なのだが、「嫌だ」という感情のほうが理解しやすいようだ。それとも、「嫌」はたいていの場合受動的に出てくる感情だから、「好」よりも使うのに勇気が必要ないだけなのか。

あなたは「恋がわからなくても愛着はわかる」という。でもその愛着は、私が「好き」と呼ぶなんだかわからない感情が作り上げたんだろうなと思いつつ、それが何かはやっぱりよくわからない。