p. 360 から。

日々の雑記。

意識とモナドに関する覚書Ⅱ

ライプニッツの『認識、心理、観念についての省察 Meditationes de Cognitione, Veritate et Ideis. 1984』(GP IV, 422–426)という著作は、認識が曖昧であるとか判明であるとかについて定義付けを行っていることで有名である。

 

簡単に整理すると、まず認識は以下の二つに分けられる
1:曖昧である(obscure)
2:明晰である(clara)
表現されている事物を認めるのに十分でない概念は曖昧といわれる。ある花を他の似た花と区別できないときや、確かな定義をもっていない言葉を考察するときは曖昧である。一方で表現されている事物をそこから区別して認めることができるときは明晰である。

明晰な認識はさらに区別される。
2-1:混雑している
2-2:判明である
色や香りや味を人間は相互に識別することができる。しかし、私たちは「赤」という色を盲人に説明できず、直覚的にしかそれらを示せない。こういうように、分解される要件を事物が持っているにしても、それを枚挙できないときは混雑していると言われる。一方で事物を他の類似したすべての物体から識別するのに十分な認識は判明であると言われる。例えば「金」について判明に認識している人は、本物の金を識別できる。

判明な認識はさらに区別される。
2-2-1:不十全である(不適合的である)
2-2-2:十全である(適合的である)
判明な概念に含まれるすべての要件認識し、分析が最後までなされたときにはそれは十全であることになる。そういう認識の完全な例を人間が示せるかわからないとライプニッツは述べている。ただし、数の概念はこれにかなり近づいているとも述べている。

数の概念は分析が長くなると一挙に直観できない。次のように区別されることになる。2-2-2-1:盲目的(caeca)ないし記号的
2-2-2-2:直観的
直観的認識は、判明な原始的概念についてのみ言われる。複合的概念については大抵は記号的な認識しかない。(「大抵は」と言っているのが気になるが)

 

そして、意識ということに関しては、以上の定義付けが終わった後、次の段落の最初の文章が重要であるように思われる。

Ex his jam patet, nos eorum quoque quae distincte cognoscimus, ideas non percipere, nisi quatenus cogitatione intuitiva utimur.

以上のことからすでに明らかなことは、私たちが判明に認識しているものについてであっても、直観的思惟を用いているのでない限り、観念を表象(percipere)してはいないということである。

複合的観念について、ライプニッツはここで直観的な思惟を用いていない限りは、観念を表象してはいないと述べている。つまり、想像力のようなものによって、記号的に結び合わされた諸観念は表象されていないことになる。たしかに千角形を人間は記号的には認識できるが、表象はできないように思われる。

ただし、複合的概念については「大抵は」記号的でしかない、と述べているように、三角形などは直観的に捉えることができるのかもしれない。その辺の区別はどのようになっているのだろうか。