わたくしごと註解

17-18世紀の西洋哲学および生命思想史を研究しています。執筆者については「このブログについて」をご覧ください。

過去の自分から私へ「ストレスを感じないために」

私はツイッターとは別に、Evernote手帳というアプリを使っている。これが非常によくて、このアプリ自体はただ打ち込んで送信する機能しかない。しかし、これをEvernoteに連携させると1日ごと区切ってメモを作成してくれる(下みたいな感じ)。

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これだと過去に書いたものにさかのぼるのも楽チンである。そういうわけで、ときどき過去のものを見返したりする。するとすっかり忘れていたようなことが書かれていて、普段どれだけ多くのことを忘れながら生きているのかということに気づく。それはもちろんツイッターも同じだけれど。

ただ、ツイッターは少なからず「みんなの目にさらされている」と感じるので、どちらかというとよそ行きの気持ちだ。なんとなくでもわかるように書く。だから、考えたことを一度反芻していることが多い。こうすると、意外とつぶやいたことは忘れなかったりする。

それに対して、evernote手帳はすっかり忘れる。考えたことをそのまま書いても別にいい。そういうわけで、どんどん書いたことすら忘れていくのである。

 

それで、今ちょっと過去に書いたものを見返していたら次のようなことが書かれていた。

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だそうである。なるほど。たしかに、中途半端に悩んで答えが出ずにストレスだけがたまっていき、もう気にするのをやめようという気持ちになるよりは、最初から気にしないほうがいい。しかし、それは実際よいことなのだろうか。それは身体に良さそうだし、精神的にもとても良いと思うのだが、それでも最初から気にしないという方法をとりたいと自分は思うのだろうか、と思考してみる。

「死なないためには、最初から生まれないに限る」という言葉があったとしよう。そして私は死にたくないと思っている。それじゃ、最初から生まれなければよかったのだろうか。そういうことでもない気がする。同様に、私はストレスを感じたくはないけれど、それでも気にしたくないかというとそうでもない。

自分にとつてなにか重要そうなものごとがあったとき、むしろ「気にしたい」のである。ストレスがあったとしても、なぜだか「気にしなくてはいけない」というような気分になるのである。それでもなお気にしないほうがよいのだろうか。

 

というように、昔のものを読み返すと変なことを考えたりすることになる。mixiや他のブログにも過去に書いたものが残っていて、ネット上に私の出したゴミがいくらか漂っている気分だ。それでも、たまに出会って拾ってみると、懐かしい友達に再会したような気持ちになる。過去の自分は、二度と会うことのない、それでも一生の仲を誓った友達のような存在だと、つくづく思うのである。