わたくしごと註解

17-18世紀の西洋哲学および生命思想史を研究しています。執筆者については「このブログについて」をご覧ください。

意識とモナドに関する覚書

昨日、研究室の先輩に頂いた質問についてしばらく考えていた。その質問は、私が理解した限りでは「意識とモナド(の表象)は区別されるのか」ということである。その場では変な答えをしてしまったように思うし、実はとても重要な問題をはらんでいるような気もするので一応その後考えたことを書き留めておく。

まず、このことに関してはライプニッツの表象(perception)や意識的表象(aperception)に関する論文をいくつか参照するべきであり、参照すべき論文は次のようなものがあげられるだろう(Stricklandが、Leibniz's Monadology A New Translation and Guideにおいて重要そうな論文をまとめてくれている)。

Robert Brandom, “Leibniz and degrees of perception”, Journal of the History of Philosophy, 19 : 4 (1981), pp. 447–79.

Rocco J. Gennaro, “Leibniz on consciousness and self-consciousness”, in Rocco J. Gennaro and Charles Huenemann (eds), New Essays on the Rationalists, Oxford University Press, 1999, pp. 357–71

Larry M. Jorgensen, “The principle of continuity and Leibniz's theory of consciousness”, Journal of the History of Philosophy, 47 : 2 (2009), pp. 223–48.

Alison Simmons, “Changing the Cartesian mind : Leibniz on Sensation, representation  and consciousness”, The Philosophical Review, 110 : 1 (2001), pp. 31–75.

 

モナドジー』において、意識とモナドの内的原理を重ねて理解するような箇所がいくつも登場する(以下のもの以外にも意識としての経験を、モナドの理解に重ねる部分が多数存在している)。

私たちによって意識的に表象される(s'apercevoir)もっとも小さな思惟が対象において多様性を含んでいることを、私たちがみるとき、私たち自身で単純実体のうちにある「多 multitude」を経験するのである。(『モナドジー』§16)

こうして、必然的真理の知識やそれらの抽象によって、私たちは反省行為(Actes réflexifs)に高められる。反省行為は、私たちに自我と呼ばれるものを考えさせ、そして、これとかあれとかが私たちのうちにあることを考えさせる。こうして、私たちは私たちを考えることによって、存在、実体、単純なものないし複合されたもの、非物質的なもの、さらに神そのものを考えるようになる。(同書 §30)

§16では、意識を経験することによって、モナドにおける多性を経験している。また、§30では、私たち自身を考える反省行為によって、単純なもの=モナドを考えるようになると述べている。しかし、これらのことから全一的に、意識とモナドを重ね合わせることはできない。というのも、ライプニッツは意識に上らない表象として微小表象を考えているからである。微小表象の領域を確保するのであれば、モナドの表象のうちのある程度の判明さを有した一部分が意識として立ち現れてくることになるだろう。

表象とは「「一」ないし単純実体において「多」を含み、かつ表現している一時的状態(L'état passager)が、いわゆる「表象 Perception」にほかならない」(『モナドジー』§14)と言われる。どのように理解するべきなのか迷う表現である。

『理性に基づく自然と恩寵の原理』において、意識と表象は明確に区別されている点には注意しておく必要がある。

外的諸事物を表現しているモナドの内的状態である表象と、意識(Conscience)すなわち、この内的状態の反省的作用である意識的表象(l'Apperception)とを区別したほうが良い。意識的表象はすべての魂に与えられているわけではなく、同一の魂においても常に与えられているわけではない。(『理性に基づく自然と恩寵の原理』§4)

こうしてみてみると、意識の領域は表象の一部に限定されることは確実なようである。そして、意識はモナドの一部分であるということができる。しかし、ここで疑問が生じる。このような意識というものにおいて、必然的真理や様々な概念が現れてくるというのは、表象と欲求のみから説明されうる事態なのだろうか

先ほどの『モナドジー』§30において、必然的真理の知識とそれらの抽象によって反省行為に高められ、この反省によって自我が捉えられると述べられていた。この順序は注目されるべきではないだろうか。最初に自我があってそれを反省することによって、必然的真理の知識などが出てくるわけではない。必然的真理は経験に頼らず、「理性の自然的光」(『感覚と物質とから独立なものについて』において、「われわれのうちにおいては、かかる力は十分判明な表象と、前に述べた光[理性の自然的光]を伴っています」と述べられる)によって捉えられるものであり、そういうものが私たちを反省へと高めるという。このとき、表象と欲求だけでなく、表象を結びつけるような作用が必要なのではないか。しかし、『モナドジー』の記述はそのことを否定しているように思われる。

表象を求むべきところは単純実体の中であって、複合的なものや機械の中ではない。さらに、単純実体の中に見いだすことができるのは、いわば、表象とその変化のみである。また、単純実体における全ての内的作用はこのことにある。(『モナドジー』§17)

ここで述べられていることに従うのであれば、モナドのうちには表象と欲求のみがある。理性の自然的光とは一体なんなのであろうか。モナドないしエンテレケイアは、記憶を伴うことで動物などの魂と呼ばれ、必然的真理を認識することによって精神と呼ばれるようになる。単なるモナドと動物の魂をわける「記憶」、そしてそこからさらに精神を区別する「理性の自然的光」、これらは何か付加されるものではないのかもしれない。むしろライプニッツの主張に従うのであればそのように解釈するべきであろう。しかし、そうだとすると、「記憶」や「光」が求められるのは表象の判明さの度合いということになる。

ここに、ライプニッツモナドの三つのレベル、エンテレケイア、魂、精神を判明さの度合いによって連続的なものとしながら、段階的に区別することの矛盾がある。それらは絶対的に異なるものなのか、それともただ連続的にのみ異なるものなのか。つまり、「より判明な表象をもちかつ記憶を伴っているモナドだけど、魂と呼ぶことにしたい」(『モナドジー』§19)というとき、「記憶」の働きは表象から派生的に出てくるのか、それとも表象とは異なるものなのか、ということである。

こうして、二つの可能性が考えられる。「光」や「記憶」が表象から派生的に出てくる場合、それはモナドの創造時において表象のセリーが規則的に立ち現れるように規整されていて、表象それ自体が「光」や「記憶」であり、ある事柄の領域が一つの概念として表象されることにより、必然的真理などを表すことになる。「光」や「記憶」が表象とは異なるものとしてある場合、個別にある細かな表象を結び合わせるものとして「光」や「記憶」が考えられることになる。

後者の場合、モナドはレベルによって区別されることになり、その断絶はあるレベルのモナド以外に意識を持つことを許容しない。一方で、前者の場合は、意識はあくまで表象セリーの程度的な規則性によって生じてくることになり、意識の連続性は保たれるといえる。すなわち、あらゆるモナドは程度的には意識を有しているということになる(判明性の低いモナドの意識が意識と呼べるものなのかは疑問だが)。

よって、最初の問い「意識とモナドは区別されるか」ということに答えるとすれば、前者のような場合において、モナドは常に意識を有するがモナドの一部であり、意識とモナドは領域としては重なっているとしても、概念としては区別されるということになる。後者の場合も同様に、さらに領域が狭まる形で概念としては区別される。

 

というのが、昨日からなんとなく悩んで出てきたことなのであるが、最初に挙げたような論文を読んで検討したいと思う。それにしても、『モナドジー』は本当に難解だし、何回読んでも面白いなぁ(「なんかい」で韻を踏んでいるよ!)。