わたくしごと註解

17-18世紀の西洋哲学および生命思想史を研究しています。執筆者については「このブログについて」をご覧ください。

知性は止まることができない

ベーコン(ロジャーじゃない方で、画家じゃない方)と聞くと、カリカリの美味しいベーコンを思い浮かべてしまう。だから僕はベーコンの研究している人は、一体どうしているのだろうかと疑問に思っている。いつかそういう人に会う事があれば是非聞いてみたいことの一つだ。

それと合わせてベーコンに関して興味深いことは、やはり『ノヴム・オルガヌム』という書物である。これは、1620年に「諸学の大革新」という計画の第2部として公にされたものだという(岩波文庫の冒頭によると)。この著作の中で、彼は「目的論」というのを強く批判している。目的論とは、大雑把に言って目的原因を含むような議論である。目的原因とは何か。アリストテレス大先生の解説に頼ることにしよう。

[第四の原因は]物事が「それのためにであるそれ」すなわち「善」である、というのは善は物事の姿勢や運動のすべてが目ざすところの終り(テロス)〔すなわち目的〕だからである。

出隆訳『形而上学』 983a31

その目的が原因になって事物が動かされるとき、それは目的因と呼ばれる。日常レベルの説明でいえば、「カレーを食べたい」という目的に突き動かされて人はカレーを食べに行く。物理的な原因は基本的に後ろにあって、「ぶつかる→ころがる」という仕方で働くが、目的原因は時間的には後のことに原因が置かれることになる。

このような考え方をベーコンは強く批判している。アリストテレスに対する批判では、アリストテレスが行っている実験は結論を先に自分勝手に決定し、結論に合うように経験を歪めているとされる(この評価が妥当であるかは別である)(岩波文庫、桂訳 p. 104参照)。論文偽装問題などでも良く聞くような話である。結論ばかりが先行してしまうというのは、たしかにあることだろう。

そして、このような目的ありきの考え方ということがなぜ生じてきてしまうのか、ベーコンはそれについても書いている。

人間の知性は絶えずいらいらして、静止もしくは休止することができず、常に先へ進もうとするが、しかし無駄働きなのである。それゆえ〔知性にとっては〕世界の究極もしくは極限なるものは思惟され得ず、常により先に何かがあるということが、いわば必然的に生ずる。

桂寿一訳『ノヴム・オルガヌム岩波文庫, p.89.

知性は静止ということを知らない。また、同箇所では「思惟の〔止まることの〕不能」ということも言われる。本来は止まるべきところで止まることをせず、人間の知性はどこまでも進んでしまう。せっかく推し進めてきた探求は、結局最後のところで最も安易であるとされる目的原因に逆戻りしてしまうのである。たしかにそういうことはあるかもしれない。そしてそのことが人間の本性であるとされる。

 

目的原因を排除することは、科学を成り立たせるために重要なステップであった。科学的説明は目的原因とは相容れないからである。それでもその後の哲学者のうちには、目的原因を復興しようとする動きがあったりするのだから面白い。科学と目的原因を両立させることも、発見法的な意味で有用であったりもするのではないか、という人々もいる。なんとも不思議な目的論、興味は尽きない。