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CORPUS ORGANICUM

日々の雑記。

恋とキェルケゴール

先日、寝る前に読もうと思い図書館で借りてきた本がある。

キェルケゴールの日記 哲学と信仰のあいだ

キェルケゴールの日記 哲学と信仰のあいだ

 

キェルケゴールの日記の抄訳なのだが、彼が何に悩み何を思い何を感じていたのかということが、ほんのりとわかってくるような気持ちになる。

さて、この中にキェルケゴールが二十代の頃恋人であったレギーネオルセンに関して書かれた日記がいくらか収められている。彼は、レギーネに婚約を申し込みそして受諾されたのであるが、それをまた自ら破棄する。私はこのことが一体何を意味しているのかも、なぜそういうことになったのかも、はっきりと理解していない。しかし、ここには恋と信仰と誠実さの複雑な心情が描き出されている。

とりわけ私の気になった日記は、1839年のレギーネにまだ恋をしている時分に書かれた短いものである。恋を言葉にするというのは常に難しい。それを伝えるその相手に伝えることも、ましてやそれ以外の人々に伝えることも困難である。それでも、キェルケゴールはこの日記で詩人たちの言葉を用いて恋を語る。

詩人たちの言葉に、私は心から賛同する。愛すべき人とはじめて出会うとき、彼女のことをずっと前に見たことがあると信じるものだ、ということに。あらゆる愛は、あらゆる認識と同様に、想起にほかならない、ということに。(p. 34)

想起説を思わせる言葉とともにキェルケゴールの恋は語られる。恋はすでに、こうなるものと決まっていたと。出会う瞬間にその人が恋に落ちるべき人であったと理解する。そして、キェルケゴールがそれを「信じる」と述べていることが、私にはとても重要なことのように思える。

恋をする。私たちはなぜか恋をする。恋に理由はいらない、とはよく言うが、しかし理由のない恋というものほど不安なことはない。恋はとつぜんに、とはよく言うが、しかし奇跡のごとく何の前触れもなく始まる恋ほど不安なことはない。恋を支えてくれるものが必要なのだ。この恋を必然たらしめるなにかを欲する。あなたと出会うことは運命だったのです、と、運命でもなんでも勝手に持ってきて自分の恋のうしろにぺたりと貼り付ける。これだけで、少しは安心できるというものである。

キェルケゴールはこれは想起だということを信じた。すでにそれは決まっていたことであると。そしてそれをただ今認識したにすぎないのだと。真理はすでにどこかにあったのだと。すでにどこかにあった恋は、いったいどこにあったのだろうか。私にはわからない。しかし、キェルケゴールがそのような気持ちになったことは全くよく理解できることである。そういうものなのだと思う。恋は。

 

この本の内容は全部は見ていないし、寝る前にパラパラめくっているだけなのだが、それでも他にもいくらか面白い日記を見出した。また、そのうち書きたくなったら書くことにする。