わたくしごと註解

17-18世紀の西洋哲学および生命思想史を研究しています。執筆者については「このブログについて」をご覧ください。

nowhere

nowhere という英語をみたとき、いつも now–here を思い浮かべてしまう。それは、tamen というラテン語を見たとき、「他面」と思ってしまうのと同じようにである。nowhere と now–here は英語に疎い私にもなんとなく全然違うことを言っているように思われる。片方は「どこでもない場所」であるし、片方は「今-ここ」である。

haruka nakamuraという作曲家の音楽に「nowhere」という曲がある。聞いていると、どこか、しかしどこでもない場所へと連れて行かれるような気持ちになる。

 

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しかし、どこでもない場所というのは存在するのだろうか。場所は常に「どこか」ではないのか。それでも不思議なことに、どこでもない場所というものを理解できる。どこでもない場所を見ることも聞くことも感じることもできないのに、音楽にすることができる。これはいったいどういうことなのか。

たぶん、感覚と概念は区別されるべきなのだろう。どこかの哲学者が言っていた。見たり聞いたりする「今-ここ」の感覚から、「今-ここ」成分を取り去ってみよう。何が残るか。それが「nowhere」ではないか。

夢はどこでもない場所だろうか。それとも「今-ここ」だろうか。夢は現実とは違うのだろうか。違うとしたら何が違うのか。同じだとしたらなぜあんなに変なのか。

どこでもない場所に向かっての疑問は尽きない。どこでもない場所はどこにもないので、見てわかるものでも聞いてわかるものでも感じてわかるものでもない。考えないとわからない。むしろそれは考えることのうちにあって、考えることがそれを生み出しているとも言えるかもしれない。じゃあ考えなければ「nowhere」はないのだろうか。でも、考えないことによってやはり、ここでもそこでもあそこでもない「nowhere」はどこかに現れてきてしまう。あるのだけれど、考えなければ、考えない人にとってはないということか。

 

ああ、なんとも深夜に考えるべきことではないようだ。なぜか知っているかい。
夜は寝るものだからだよ。