わたくしごと註解

17-18世紀の西洋哲学および生命思想史を研究しています。執筆者については「このブログについて」をご覧ください。

雨と蜘蛛の巣

今朝起きると、小雨がサァーと音を立てて草木を濡らしていた。私は窓越しにそれを眺めつつ、「あぁ、今日はキタドコで髪を切る日だ」と外出の憂鬱のみを頭に思い浮かべた。いつでもそうなのだが、雨の日に外出しなければならないときは憂鬱で仕方ない。昔から雨の日は外に出てはならないことになっている。

外出しなければならないとき以外には、雨はいいものだと思う。なんなら、傘をさして散歩してもいい。外出したくない人が外出するというのもおかしなものだと考える人もいるかもしれないが、そうではない。外出しなければならない、ということが嫌なのであって、なんとなくいつでも帰れるつもりになってその辺をウロウロすることはいいものなのである。とくに雨の日は、普段とは違う景色をみることができる。生き物も違うものが出てくる。私はカタツムリという、背中に貝殻を背負い、体はぬめぬめと形のない、何者なのか判然としない奇怪な生き物を、好きである。好きである、ということ事態が奇怪な好意なのであるが、しかしのんびりとした動きとすぐに引っ込むツノを見ているとなんとなく優しい気持ちになったりもする。ナマケモノを見ていて癒される人は、たぶんカタツムリのことも好きなんじゃないだろうか。

さて、こうして少し憂鬱なまま起床した私は、コーヒーを淹れるために電気ケトルに水を入れた。電気ケトルという便利なものはあっという間に湯を沸かしてくれるものであるが、それでも数分という時間を待たなくてはならない。この数分に何をするのかというのは、この電気ケトルが発明されて以来人々を悩ませてきた大問題である。私も例のごとく悩み、悩んだ挙句、ただ窓の外を眺めるばかりであった。

窓の外には狭い庭と、高い垣根がある。高い垣根は私の身長と同じくらいあろうかという柊で、そうそう簡単に行き来できる代物ではない。つまり、垣根としての役割を十分に果たしているということなのである。その垣根に、普段見慣れないものを発見した。蜘蛛の巣である。小雨が蜘蛛の巣に降りかかり、白く存在を強調していた。なるほど、普段は透明でほとんどその姿を隠していて、私たちが通りかかり何となしに引っかかったときに「あっ、くそ、こんなところに蜘蛛の巣が」と思うあの蜘蛛の巣である。雨の日になれば、その透明な蜘蛛の家屋も明晰判明にその姿を現してしまうのだ。

しかも蜘蛛の巣は一つや二つではなかった。軽く十は超えている。十五くらいはあったかもしれない。とにかくたくさんの蜘蛛の巣が垣根の上にその白い領域を広げていたのである。なかなか、趣深いではないか。魔法を唱えないと目には見えない魔女の家というのが、何かの小説か漫画であったと思うが、それである。

私自身、ふだんいろんなものを見ているようで何も見ていない。目はついているが、こっちが見たいと思うものか、向こうが見せてもいいと思っているものかしか見ていない。実はこの世界には、こっちが見たいとも思っていないし、向こうが見せたいとも思っていないものが存在している。それがたまたまこういう雨によって露呈してきたりするのだから面白い。こういう発見があるから小雨もバカにできないのである。

バカにできないのではあるが、それでもやはりキタドコに髪を切りにいくことは憂鬱であることに変わりがない。雨は悪くない。どちらかというと、予定というものが悪いのだと、何にこの気持ちをぶつけたらいいのかわからず、こうしてここに書いているのである。