わたくしごと註解

17-18世紀の西洋哲学および生命思想史を研究しています。執筆者については「このブログについて」をご覧ください。

眼鏡で見る世界

いつのまにか目が悪くなっていた。僕の場合、目が悪くなったと言っても眼鏡なしで家の中くらいなら歩き回ることぐらいはできる。さすがに自転車や自動車に乗る事はできないのだけれど。小学生のころはまだ目が悪くなかった。中学生も。たしか、中学の三年生のときに初めての眼鏡を「パリミキ」で買ってもらった覚えがある。最初の眼鏡は綺麗な抹茶色の半透明なセルフレーム。ところが、合唱コンクールのとき、ふとした拍子に落としてしまい、さらに不幸なことに踏みつけられてしまったのである(いじめられていたわけではない)。それが最初の眼鏡だった。

僕のもっていた眼鏡は不幸な最期をとげることが多い。高校三年生のときに買った、ボストン型の黒縁眼鏡は下田の海で流された。後ろから来た波にさらわれて、どこかに行ってしまったのである。今頃は太平洋の真ん中で優雅に泳いでいてくれるといいのだけれど(いわゆる海の藻屑になっているだろうが)。

そのあと買った眼鏡は、かなり気合いの入った鯖江の職人さんによる手作り眼鏡であった。たしか「掌(たなごころ)」というシリーズの濃いべっ甲色のセルフレーム丸眼鏡だったはずである。この眼鏡の最期はどうだったか。僕がある日眼鏡のレンズを拭いていると、何の抵抗も音もなく、例えばあなたがカントリーマアムを二人で分け合うために真ん中で割ろうとするときのように、ポロリと折れたのである。これには驚いた。酷使していたので、なにか疲労がたまっていたのだろうか。硬いものも疲れれば弱いのである。

こうして、今はZoffのリムが緑色でテンプルがべっ甲色のふにゃふにゃな眼鏡をかけている。こいつがなかなかのふにゃふにゃで、踏んでも蹴っても投げ飛ばしても壊れないのである。これだけ頑丈ならば今までのような不幸な最期をむかえることは避けられるかもしれない(海に流されればお陀仏であるが)。

 

眼鏡を通すと、生で見る世界よりもはっきりと世界を見ることができる。面白い現象だと思う。顕微鏡を通せば小さな世界を見ることができるし、望遠鏡を使えば遠くの世界を見ることができる。人間の知覚がこうしてどんどん拡張されていくことは、非常にワクワクする事でもある。

私はどこまで私なのかということが問われる。いくつものデバイスを接続し、あらゆる知覚を発達させたサイボーグのような存在もありうる。いまは正常な視力というものが存在し、その正常な視力に合わせるために眼鏡をかけるのだから、発達というよりも矯正ということになるかもしれない。しかし、全人類の目が悪くなった日にはこの眼鏡も立派なサイボーグ化の第一歩だろう。などと考えたりもする。

もちろん優生思想は手放しで称賛されるものでもないし、サイボーグ化が素晴らしいということを妄信する人を見ると、少し悩ましい気持ちにもなる。

 

眼鏡を通して世界を見ているということ、いやもしかすると、この眼鏡の方が世界を作り出してくれているのかもしれない。だとしたら、少しでも綺麗な方がいいし、眼鏡のレンズはこまめに拭いておきたい。みうらじゅんは「おや汁」と言っていたが、おやじになると眼鏡に変な汁がこびりついていたりするらしい。恐ろしい事である。

眼鏡はできるだけ大きいほうがいいというのも、僕の眼鏡選びのポイントである。単純に視野が広いほうがいいのだ。横に細長い眼鏡は、視界を下に向けると眼鏡から外れてしまう。これが意外ともどかしいものである。その点、ボストン型は視野が広くて良い。また、大きめの丸眼鏡は最高である。どちらの方向にもレンズでカバーされていて、視野の広さは抜群なのだ。

 

そろそろ新しい眼鏡を買ってもいいかもしれないな。