わたくしごと註解

17-18世紀の西洋哲学および生命思想史を研究しています。執筆者については「このブログについて」をご覧ください。

やるかやらないか

生きていると「選択」をする場面にぶつかる。それも、少し大きめのやつ。例えば、僕が最近した少し大きめの選択といえば「大学院に行くか、行かないか」という選択だった。結局僕は大学院にやってきたし、それでよかったと思っている。

ところで、僕に与えられた選択肢は「大学院に行くか、行かないか」だったのだろうか。それとも「大学院に行くか、就職するか」だったのだろうか。つまり、大学院に行かない=就職するということだったのだろうか。僕はそうではなかったと思っている。

僕のような若輩者が人生について語るのもおこがましい話なのだが、人生には流れというものがあるように思う。別れていく支川や派川に対して、主要な流れのことを本川というらしいが、一人一人はその流れに乗っている。それぞれの人が川なのではなく、川は環境や状況といった外的な要因系のことの比喩として使っている。つまり、僕は普通に高校を出て浪人し、大学に進学しそして企業に就職するというのが、自分にとって自然なこと、いわば本川であった。

支川とは本川から出て、別の本川に合流する川のことである。大学院に進学することはいわば、この支川に乗り他の本川(学術領域での流れ)に乗ることであった。もちろん、大学院にいっても就職する人は多い。それを考えるならば、支川はいまだ別の本川へと移動する途中ということでもある。

人生におけるいくつかの選択は本川から支川へ、そして他の本川へという流れである。選択を迫られたとき、悩んだり、選べなくて困ったりする。しかし、そうやって選択を迫られているということ自体が、すでに支川へと吸い込まれていく流れに乗っているということでもある。もちろんそこでそのまま流れていかないのが人間が有している意図的に働く作用であるのだが、それでも状況はすでに支川へと向かっている。

こうしたとき、本川にそのまま乗り続けることよりも、支川へと流れていくことの方が普通になっている。普通というのは、つまり自然であるということだ。そして本川における支川へと吸い込まれていく流れに、小さな選択の連続が僕らを導いている。支川へ入り込むことは大きな決断のようであるが、本川から実はそこへと続く小さな選択の群れが存在していたのであり、支川へと入り込む直前になって怖気付くのである。

もう一度言うが、怖気付くことができるのがただの川の水と異なる、人間の特殊な力である。立ち止まり、考え、考え、そしてやめることもある。ただし、状況は完全に流れに乗ることにあり、すでに本川に従って流れていくことは不自然なことになってしまっているのだ。本川とはなんであったか。自分にとって自然なことが本川だとすれば、不自然なことになってしまった選択支はいつのまにか本川ではなくなってしまっていたのである。それは何か。本川ではなくなってしまった本川とはなんであるのか。

人生の選択とは複雑怪奇なものである。ある選択肢を与えられたときにはすでに何かに傾いてしまっているという場合が少なくない。それを選ぶことを躊躇しているにしても、すでに状況はそれを選ぶことが可能な状況になってしまっているのだ。いつのまにかこんなところに来てしまったのか。思い出そうとしても明確な答えなどは出てくる気配はない。そうして、後ろも前も見えない中で何かを選ばなくてはいけないのだ。

いま考えることができるのは、やるかやらないか、根本的にはそれだけだろう。