わたくしごと註解

17-18世紀の西洋哲学および生命思想史を研究しています。執筆者については「このブログについて」をご覧ください。

感動的なこと

感動的なことが多い。本はもちろん感動的だし、音楽も、映画も、誰かの言葉の端々も…。なぜなのだろうと疑問に思った。感動したときの自分の気持ちとは一体なんなのだろう。

たいていの場合、目が潤むのが感動の合図だ。感動してるのかな、してないのかなと自分でもよくわからないことが多いのだけれど、そういうときは少し自分の眼球に注意してみる。いつもより水分が多めなら、たいてい感動しているということにしている。特に他の理由もないからだ。

物事が僕の目の前に現れてくるということは、それ自体非常に感動的なことだろう。しかし、感動的なものが全て僕に感動することをもたらすわけではないので、つねに感動しているわけではない。

感動するということは、感動を自覚することかもしれない。自覚されない微小感動のごときものが常に自身の心の中には渦巻いているのではないかとも思ったりする。

 

こうして考えているうちに、感動することの主体のようなものが、いつの間にか存在していることに気がついた。感動することの主体がいるから、感動的なものに感動することができる。

しかし、もう一つの道もあるかもしれない。感動そのものになるということである。感動的なものは、同時に感動することでもあるということは考えることができるだろう。

主体として感動的なものを享受するという感動、そして、感動的なもの即感動すること。

 

ところで、なぜあるものが感動的なのだろうか、ということがまだ全く触れられていなかった。あらゆるものは感動的であるというのが、僕の実感である。それは何に基礎を持つのか、それとも単なる思い込みなのか。

一匹の生物は感動的である。これは、なんとなくわかるかもしれない。一粒の石が感動的であるというのはどうか。無数に散らばる河原の小石すべてが感動的であるというのはいったいありうることなのか。

実は僕はまだその答えに達していない。ただ感動的であるという実感のみがあり、あとは何もない。実感は誤りやすい。それゆえにつねに理性的な所産に振り回されるのであるが、先にあるのは実感であることが多い。

実感に目を向けるということを、たまにこうしてやってみるのもいいだろう。言葉にしてみると、いかに曖昧で適当で雑なものなのかを、それこそ実感できるのだから。