わたくしごと註解

17-18世紀の西洋哲学および生命思想史を研究しています。執筆者については「このブログについて」をご覧ください。

ひきだし

深堀隆介回顧展「金魚養画場〜鱗の向こう側〜」のひきだし

f:id:philoglasses:20160517185849j:plain 先日、深堀隆介回顧展「金魚養画場〜鱗の向こう側〜」を見に行ってきた。彼の作品は、樹脂に金魚の絵を描きつけることで、あたかもそこに本当の金魚がいるかのように見せるものであった。こうして写真で見てみると、本当にそこに金魚がいるようだ。

 彼の作品の一つに、「ひきだし」にたくさんの金魚が入っているというものがあった。右の写真がそれである。いくつもある作品のなかで私が一番印象に残ったのがこの作品だった。深堀氏の作品はほかにもゼリーのカップや、番傘の内側など、普通金魚がいないであろう場所にそれを描く。「ひきだし」の中に描かれた金魚もまたそのうちの一つなのだが、「ひきだし」はその意外性をさらに引き立てる効果を持っているように感じた。「ひきだし」のもっとも「ひきだし」らしい点は、「引き出される」というところにある。引き出されないひきだしはないだろう。私たちは「ひきだし」が引き出される瞬間まで中の事物を知らない。友達の家の「ひきだし」は勝手に引き出してはいけない。そこは、家の中で、もう一つの「中」なのだということである。私のものではない「ひきだし」の中身を私は想像する。ペンか、紙か、大事なものか、いらないものか…あらゆる可能性を思案した挙句、引き出した瞬間それが解決する…はずである。

 引き出された金魚はしかし、そこで解決されずに悠々と泳いでいる(かのごとくである)。なぜそこに金魚がいるのだ。なぜ。様々な可能性を私は考えたはずにもかかわらず、(予想の斜め上とはまさにこのようなときに使う言葉なのだろうが)まったく予想外の金魚たちの姿をみて、そしてその理由も全く思い当たらない。そういう意外性をひきててくれるのが、「ひきだし」というものだ。

 

三省堂書店アートブックバザールのひきだし

f:id:philoglasses:20160517213055j:plain

 少し見づらいかもしれないが、左の写真の左下にも引き出しがあるのがわかる。これは、池袋の三省堂書店で開催されていた art book bazar の様子である(たしか今月末までとかいてあった気がする)。実はこのいくつもある引き出しの一つ一つを自由に引き出してみることができる。そこには今まで見たこともないようなロシアの絵本が何冊もしまわれているのである。私は次々と「ひきだし」を開けて、やがて全部開け終わってやっと満足することができた。

 「ひきだし」は好奇心を刺激する。好奇心に逆らわずに生きる人は、次は何が入っているのだろうと、中毒患者のように開け続けるはめになるのである。そのどれもに、同じような(そもそも読めないのでよくわからない)ロシアの絵本が入っていたとしてもその好奇心は止むことがない。「ひきだし」は開けられる前には何も中身を教えてはくれていない。中身が全く見えない「ひきだし」は、前に開けられた「ひきだし」とある意味で関連付けられながら、同時に切り離された一つの空間として独立しているのである。そのとき、開けた後の「また同じものだ」という落胆よりも、開けることの重大性のほうが私自身に強く現れてくるようだった。

 

表参道 文房具カフェのひきだし

f:id:philoglasses:20160517215916j:plain

  ここの「ひきだし」は鍵がかかっている。鍵がかかる「ひきだし」は珍しくはないし、脱出ゲームではおなじみのものだろう。大事なものをしまう「ひきだし」は鍵がかかってくれたほうがいいに決まっている。

 文房具カフェは表参道のお洒落なお店に囲まれて、突然現れる地下へ続く階段を降りたところにある。混雑していてひっそりととは言えないが、それでも隠れ家的な雰囲気で存在している。各テーブルは二人〜四人が座れるようになっているのだが、このテーブルに「ひきだし」が備え付けられている。その「ひきだし」は鍵がかかっていてあかない。私も最初、どうしたらいいのか理解できなかったが、どうやら会員になることで鍵を手にいれることができるということを知ることができた。驚いたことに、この鍵、もらえるのである。これはうれしいプレゼントだ(まぁ、700円くらいとられるのだけど)。

 この鍵を使えば店内のテーブルに備え付けられた全ての「ひきだし」を開けることが可能である。「ひきだし」を引き出す権利を手にいれることには、格別の喜びがある。好奇心を満たすためだろうか、意外性を求めてだろうか、理由は様々あるだろうが、なによりも「この鍵を有している人間のみに許されたひきだし」という優越感だったかもしれない。鍵のついた「ひきだし」は権利を有したものだけに許された、特権的空間となる。普段、私はだれかに選ばれることも、褒められることも、ほとんどないのであるが、それでもたまにこうして特権を手にいれることができたときには、それを非常に大切に思うのである。

 それで、きになる「ひきだし」の中身であるが、これがまた面白い。様々な文房具が入っていて、そして先人たちがノートに残した落書きのなかに、私も入れてもらうことができるのだ。こんなに楽しいことはなかなかないだろう。

 

ひきだしの話について

  こうして思い返してみると、最近「ひきだし」と関わることが多い。関わるというのも、おかしな話かもしれないけれど、それでもこうして「ひきだし」でブログが書けるくらいにいろいろな「ひきだし」と出会うことが多かったということである。本当はもっといろいろな引き出しと関わったのだが、そこまで書くほどの情熱がなかった。例えば、先日亡くなった親戚の通夜にいった帰りに高尾山の近くにある「山の神」というほうとう屋さんに行ったのだが、そこにも古ぼけた「ひきだし」つきの大きな棚があった。思わず開けてみたのだが、中にはなにも入っていなかったので特に書くこともないのであるが。

 「ひきだし」の、意外性や好奇心や特権性について上で書いてはみたものの、結局「ひきだし」についてよくわからない。今こうしてこれを書いている机にも、5つの「ひきだし」が備え付けられていて、それぞれにはいろいろなものが入っている。中には、小学生のころの思い出の品というものまである。土の中にタイムカプセルを埋めたことはあったが、しかしあれはとっくの昔に掘り返してしまって中身はどこかにいってしまった。しかし、この「ひきだし」の中身はいつまでもずっと変わらない(私が整理しないだけなのだけれど)。「ひきだし」は中身とともに語られなくてはならないだろうか、それとも「ひきだし」はそれ自体で…

 こうして、「ひきだし」についていくらでも、定まらない視点で、どこまでも書き続けてしまいそうである。また、何か面白い「ひきだし」を開けたときには、またブログでも書こうと思う。