わたくしごと註解

17-18世紀の西洋哲学および生命思想史を研究しています。執筆者については「このブログについて」をご覧ください。

三木清「哲学はどう学んでゆくか」前半

「哲学ってどうやって勉強したらいいの?」という質問によく出会う。よく言われるように、哲学には生物学や物理学などのようにスタンダードな教科書なるものが存在しない。これを一冊読めばとりあえず大丈夫みたいなものがないのである。一方で倫理学分野の…

マルクス・アウレリウスの比喩:『自省録』第4章より

今日は『自省録』第4章の比喩を見てみようと思う。章ごとに特徴があるということでもないと思うのだが、全12章の『自省録』を比喩に着目しつつのんびり読んでみようという気持ちである。第4章には方向性の異なるいくつかの比喩が登場する。 第1節:人間の内…

マルクス・アウレリウスの比喩:『自省録』第3章より

穀物の穂がしだれているのや、獅子の額の皮や、野猪の口から流れ出る泡や、その他多くのものは、これを一つ一つ切りはなしてみればとうてい美しくはないが、自然の働きの結果であるために、ものを美化するに役立ち、心を惹くのである

マルクス・アウレリウスの比喩:『自省録』第2章より

なぜなら私たちは協力するために生まれついたのであって、たとえば両足や、両手や、両目蓋や上下の歯列の場合と同様である。それゆえに互いに邪魔し合うのは自然に反することである。

横断歩道の白線で遊ぶこと

横断歩道を渡ろうとするとき、誰しも白線に意識がいってしまうという経験があるのではないだろうか。「横断歩道の白線から落ちたらワニに食べられてしまう」というような架空の設定で遊んだ記憶がある人もいるだろう。私の経験からいえば、横断歩道で自分の…

エピクテートスが哲学に求めたこと

哲学の始めを見るがいい、それは人間相互における矛盾の認識であり、矛盾の出て来る根源の探求であり、単に思われるということに対する非難と不振であり、また思われるということについて、それが正しいかどうかの何か研究であり、また例えば重量の場合に、…

さぁ野菜を食べに行こう

外食をしようということになり、「何を食べたいか」という質問をしたら、「野菜が食べたい」という答えが帰ってきた。このようなときに、いったいどこに行くのが良いのだろうか。麺が食べたいという答えであれば、ラーメン屋、パスタ屋、そば屋、うどん屋…選…

M. ヘッセ『科学・モデル・アナロジー』:アナロジーの種類

昨日も書いた、M. ヘッセ『科学・モデル・アナロジー』の「実質的アナロジー」の章において、いくつかのアナロジーの型が紹介されている。アナロジーと一口に言っても、はっきりと定義されているのではないがゆえに、様々な型が存在している。今回はそれを書…

M. ヘッセ『科学・モデル・アナロジー』:観測不可能への歩み

科学の理論というものが, 経験的なデータに「説明」を与えるためのものであるならば, その理論を何らかのモデルを用いて理解する必要があるだろうか. あるいは, その理論を馴染みの対象や出来事とのアナロジーによって理解する必要があるだろうか. これは、M…

好きな場所でひきこもろう

人は田舎や海岸や山にひきこもる場所を求める。君もまたそうした所に熱烈にあこがれる習癖がある。しかしこれはみなきわめて凡俗な考え方だ。というのは、君はいつでも好きなときに自分自身のうちにひきこもることが出来るのである。実際いかなる所といえど…

タイムトラベルな文章

なお、このあと、提喩の定義についてはいくらか込みいった検討に立ち入ることとなるので、わずらわしい定義問題などに関心のない向きは、ここから一五六ページまで飛ばして読んでくださってもさしつかえはない。

やらねばならぬこと

よく言うことだけれど、「やれ」と言われるとやりたくなくなる。これは単にひねくれているから、ということなのだろうか。やるつもりがあったにもかかわらず、やれと言われるとやりたくなくなるというのは、本当にやるつもりがあったのだろうか。 実際、やる…

第1回 このカレーがうまい「スリランカ風キーマカレー」(S&B)

今回ご紹介するのは「スリランカ風キーマカレー」!スリランカ風って何?キーマカレーって何?という疑問にあまり答えない、ただの感想です。

坂本賢三『機械の現象学』:「機械」とは何か、そして近代の知識とは何か。

科学の方が機械をモデルにしてつくり出されたといってよく、機械は科学的方法の根拠であるといってもよいのである。したがって、自然的見方の出発点である機械が哲学的分析から離れたところにあり、哲学的考察をいわば拒否しているかのごとき姿をとっている…

好みと歴史性

私が生活するということには、何かを選ぶということが常につきまとっている。選択の方法には様々なものがあるがどの選択方法をとるにしても、選ぶことが可能である場合には選びたいと思ったものを選ぶということになるのだろう(方法に関しても私たちは選択…

高橋澪子『心の科学史』の序説に関する覚書

心理学が一実験科学ないし個別科学として制度的に確立されるのは、周知の通り、いまから一世紀あまり前のことである。しかし、厳密な意味における近代科学としての実験心理学の論理が成立するためには、さらに半世紀近くを経て、一九三〇年代末に完成する「…

「規則正しい」について

規則正しいというのは、「規則が正しい」のか「規則に正しい」のか。 前者の場合。規則自身の正しさについて、何かを述べている。規則自身の正しさとは一体なんだろうか。等差数列のような数列は規則正しいと思われる。突然、その数列の中にまったく無秩序な…

ためいき指南

なんとなく最近ため息をつくことが多い気がする。ため息のやり方は簡単だ。まず、ぼーっとして、目をうつろに、そして口を少し開けたら、さっと息を吸い込み、ゆっくりとしかし最後まで吐き出す。「はぁ」という声のようなものが出れば成功だ。 口は話す以外…

夜とインク

ブルーブラックのインクだから青でも黒でもない。 夜の空を見てみても、昼の青でも真っ黒でもない。 ペン先で吸い上げたインクを拭き取る紙に浸みこむ夜の空。 インクをこぼした紙に穴を開けて光を透かしてみたらよい。 それは夜だろうか。それともインクだ…

宇宙は一匹の生き物だという考え方

宇宙はひとつの生き物で、一つの物質と一つの魂を備えたものである、ということに絶えず思いをひそめよ。またいかにすべてが宇宙のただ一つ感性に帰するのか、いかに宇宙がすべてをただ一つの衝動から行うか、いかにすべてがすべて生起することの共通の原因…

効率的な仕事と手数の少なさ

私はパン屋さんでパンを作るという、極めておしゃれなバイトをしている。お花屋さん、ケーキ屋さん、カフェ屋さん、辺りに並ぶ「なんかいいなぁ」系バイトのうちの1つであろうと思う。ところが、パン屋さんの場合、早朝がけっこう忙しい。開店前に品物を揃え…

五百羅漢と顔

散歩日和だったので、川越の喜多院にある五百羅漢を見に行ってきた。以前に一度行ったことがあったのだけれど、500体以上もある石造をひとつひとつ眺めて歩くのはいつでも楽しいことだと思う。 喜多院の歴史は、奈良時代にまでさかのぼるともいわれ、少なく…

駅に向かう道を夕方に歩く

夕方に出かけるのはとても良い。 夕方は一日の終わりだという気持ちと、これからあの場所へ行くのだという気持ちとが一緒になる。 夕方は自然の境目、つまり昼と夜の。 夕方は心の境目、つまり始めと終りの。 夕方に出かけるという心地よさは、背徳感から生…

現象の善き基礎

コピーやイコンが善きイマージュであり、善き基礎のあるイマージュであるのは、類似性を授けられているからである。ただし、この類似性は、外的な関係と解されてはならない。類似性は、事物と事物の関係であるよりは、事物からイデアへの関係なのである。 (…

冬のイメージは電車

私にとって、冬の主要なイメージの一つとして「電車」というのがある。冬の電車はとても印象的なのだ。冬の電車は温まり過ぎた足元のヒーターと、ぬるい空気、そしてまっ白く曇った窓ガラス…それに年末だと、みんなのソワソワした空気も一緒にどこかへ走って…

絵を描く人がいると絵ができる

ここ15年くらいの話だけれど、絵というものが常につきまとってきた。というよりも、私自身が絵につきまとっていたのかもしれないが。そして、「描かれた絵」につきまとっていたのではなくて、「絵を描く人」につきまとっていたのかもしれないが。 初恋の人(…

私がものを見るということは、私の空虚を埋めるのだろうか

何かを論じたり、評したりすること、さらには単に何かを語ろうとすることは常に、その対象を自分の外部に置くことを伴う。言葉にするだけでなく、考えることそれ自体も何か私ではないものを考える。私自身を考える際も私は対象化される。リンド夫妻が『ミド…

犬の思い出

雨の日の散歩は一緒に濡れながら歩いた 雪の日は庭で雪玉を投げて遊んだりした 山に登って一緒に頂上でお弁当を食べた 川で一緒に泳いで君は流されかけていた 海に行ったときも君は引いては寄せる波に驚いていた 小さいときはよく喧嘩をした でもそのあと同…

恋がわからなくても愛着はわかる

「恋がわからない」「好きという気持ちがわからない」 そう言ってくれる人にたまに出会う。もどかしいような、わかってほしいような気持ちになる。だけれども、それよりもまず嬉しいと思う。それは、とても真面目だし真剣に考えてくれていることから出る言葉…

どうしたら名人になれるのか

古今亭志ん朝の落語のマクラに「名人」について述べているものがある。最近は名人ということがよく言われるけれど、本当の名人はいるのだろうか。名人たるには何が必要なのか。そういうことをはなしている。カトリックで聖人に認定されるためには、いくらか…