わたくしごと註解

17-18世紀の西洋哲学および生命思想史を研究しています。執筆者については「このブログについて」をご覧ください。

読書会考 1/5「読書会を考えることについて 」

さいきん読書会に関する話題をよく目にする。それらの議論に一石を投じようなどという気持ちは毛頭ないのだが、私も読書会にお世話になっている一人の人間として少し考えてみようという気になった。 議論へコミットする気がなくても、思惟はつねに状況から影響を受けるのだ。そういう意味ではさいきんの話題と全く無縁ではないとも言える。

題名にも「1/5」と書いたように、私はこの記事を数回にわけて投稿しようと考えている。理由は単純に一度にいろいろ考えるのが億劫だからにすぎない。あえて次のようにこじつけてもよい。読書会とはある期間継続して書に向かうものであるがゆえに、読書会について考えることもまた継続的であるべきだ。

いろいろ考えたい、とはいえ話題を限定しておくことは必要だろう。読書会概念の外延は非常に広い。詩、小説、専門書、教科書…読めとし読めるあらゆる対象が読書会では扱われている。さらに、おなじ本を扱っている読書会があったとしても、その会が何を目的とするのかによって全く違った雰囲気の会となることは容易に想像がつく。私は哲学の大学院生だということもあり、非常に限られた読書会についてしか実際の経験を持ち合わせていない。それゆえ、個々の読書会についてあれこれと考えることは断念しなければならない。そのようなことは、実際にさまざまな読書会に参加して体験しなければ書くべきではないし、そもそも書けない。このことからもわかるように、私が書くことのできる話題は限られている。

まず読書会一般について書くことは可能であろう。例えば読書会は単なる読書とは異なるということは、あらゆる読書会に共通して言うことができるだろう。それゆえ、読書会と読書がどのように異なるのかという問題は、個々の場面から切り離して考えることができる。

そして、もう一つだけ私に許されているのは、哲学書および哲学研究書の読書会について書くことであろう。唯一このような類の読書会は主催したり参加したりの経験がある。この乏しい経験から何事かを述べることを許していただけるならば、一人で哲学をすることと複数人でそれをすることの違いや、Skypeで行う読書会とおなじ空間に集まって読書会をすることの違いなど、より具体的な話題を提供することができるだろう。

五回に分けておいてよかった。もうお昼休みがおしまいだ。第一回は話題を限定するだけになってしまった。とりあえず、具体的な話から入った方がいいだろうから、次回はSkype読書会の意義と困難について簡単に書くことにしようかと思っている。そんな奇特な人がいるかどうかわからないが、気長に待っていてほしい。

温泉雑記:湯田中渋温泉(2018/1/18~19)

「牛に引かれて善光寺参り」という仏教説話があります。牛を追いかけていったら善光寺に辿り着いちゃったというお話でありまして、それもまた仏さまのお導きということになっております。はてさて、仏さまに導かれてなのかどうかはともかく、多くの人々が昔から善光寺へ参ったもので、様々な道が善光寺へと通じているものであります。群馬の草津から善光寺までの道もまたそう行ったルートの一つになっておりまして、旅路の途中にはさまざまな旅籠屋が立ち並んでいたそうです。

今では温泉街として独立して名の知られた渋温泉も、昔は善光寺参りの途中に足を休めるための場所でありました。鉄道の開通や、情報通信革命は人の流れに影響をあたえるものでして、徐々に一つの観光地として有名になったこの渋温泉は、いまではすっかり草津に負けずとも劣らない温泉街となったそうであります。

さて、先日私もこの渋温泉へと行って参りまして、大変良い旅だったものでちょっと感想でもと筆をとった次第であります。便利な時代ですので、都内からでもあっという間です。長野駅から一時間ほど長野電鉄に揺られていくと湯田中にたどり着きます。湯田中から徒歩で二十分ほど川沿いを歩くと、あっという間に渋温泉というわけです。面白いのは、長野電鉄の特急車両でして、古い方の新幹線や特急車両を使いまわしているため、乗る度に全然違うデザインなのです。これはこれで、乗る楽しみがあるものですね。

今回私が宿泊したのは「金具屋」さんというお宿でして、最近では「千と千尋の神隠し」や「このはな綺譚」といったアニメや漫画の聖地としても有名だそうです(私はあまり詳しくはないのですが)。このお宿、どうやら先ほど述べたようにまだこの地域が観光地として有名になる以前から在ったらしく、創業は宝暦八年、つまり西暦でいえば1758年だというのです。明治から昭和初期にかけて大きく建物を増やし、ほぼ現在の形になった金具屋は、いまでもその当時の木造建築のまま営業をしておりまして、幾つかの棟は有形文化財にも指定されているというものであります。

有形文化財であったり、歴史があったり、することそれ自体も貴重なことではあるかと思いますが、私がそれ以上にこの宿に驚いたのは、その装飾であります。現在の九代目にあたる方が説明してくれたことによれば、昭和初期の第増築を行う際に、多くの宮大工を雇い、当時の六代目が彼らを連れて日本全国を回りそれぞれ地域特有の建築技法を学ばせてこの宿に再現させたというのです。この辺は、実際にHPなどで写真を見ていただくのが良いでしょう。

渋温泉街には外湯が九つありまして、この温泉街に宿泊している客は好きにそれらを使用することができるのも魅力の一つであります。しかも、それぞれ異なる源泉を有しているそうで泉質や効能も違うそうなのです。九十歳を超えたというおばあさんと、その息子さんで営んでいる宿近くの喫茶店で聞いた話では、一、六、九の外湯がおすすめということでありました。選べないときは地元の人に教えていただくのがいいですね。

外湯も十分に楽しめるのと同時に「金具屋」さんの中にも内湯がたくさんありまして、全部で八つの温泉が用意されておりました。どれも装飾が凝っていることもありますが、内湯も四つの異なる源泉から掛け流しでやっているということで、短期間にこんなに多様な温泉に入ったのは初めてかもしれません。

一泊し、出発する日の朝、源泉ツアーというものに参加させていただきました。どうやら、宿が独自の源泉を自分で保有しているというのは珍しく、普通は共同で一つの源泉を分けて使用しているそうなのです。共同ですと、その源泉を見学というわけにもなかなかいかないのですが、このお宿では自家源泉を四つ保有していて、それらを見せてくれるというわけなのです。どういう仕組みで温泉が汲み上げられているのか、そして、どんなメンテナンスが必要でという、マニアックな温泉話を聞くことができました。なんとも面白い経験ばかりです。

いまのように医学が発達する以前は、温泉は一つの薬でありました。療養のために温泉地に滞在するということも多々あったということはよく聞くことであります。そのような時代と比べると人々の温泉に対する関心はより精神的なものへと移り変わってきたように思われます。身体であれ精神であれ、それらは切り離すことのできない一つの人間です。癒しの効果がどちらに作用するものであるにしろ、人間にとって、温泉が癒しであるということは変わらないのでしょう。「いい湯だなぁ」と思うことは、年に一度くらいあってしかるべきだと、温泉旅行に行くと感じるのです。どうでしょうか。

読書メモのリンク集

ジャン・グロンダン/末松壽・佐藤正年訳『解釈学』白水社文庫クセジュ, 2018.
ジャン・グロンダン『解釈学』

 

上村忠男『ヴィーコ論集成』みすず書房2017.
上村忠男『ヴィーコ論集成』

 

戸谷洋志『ハンス・ヨナスを読む』堀内出版, 2018.
戸谷洋志『ハンス・ヨナスを読む』

 

山本信『哲学の基礎』北樹出版, 初版 1988. 放送大学教材, 初版 1985, 改訂版 1992.
山本信『哲学の基礎』

 

G. ドゥルーズ/堀千晶訳『ザッヘル=マゾッホ紹介 冷淡なものと残酷なもの』河出文庫, 2018.
ドゥルーズ『ザッヘル=マゾッホ紹介』

 

F. Duchesneau, “Les modèles du vivant de Descaretes à Leibniz”, Vrin, 1998.
Les modèles du vivant

 

G・ドゥルーズ檜垣立哉・小林卓也訳『ベルクソニズム』法政大学出版局、2017.
ドゥルーズ『ベルクソニズム』

 

清水高志『実在への殺到』水声文庫、2017. 
清水高志『実在への殺到』

 

佐々木能章ライプニッツ術:モナドは世界を編集する』工作舎、2002.
佐々木能章『ライプニッツ術』

 

E・J・エイトン/渡辺正雄、原純夫、佐柳文男訳『ライプニッツの普遍計画』工作舎、1990.
エイトン『ライプニッツの普遍計画』

 

ジャンバッティスタ・ヴィーコ/上村忠男訳『イタリア人の太古の知恵』法政大学出版局、1988.
ヴィーコ『イタリア人の太古の知恵』