わたくしごと註解

17-18世紀の西洋哲学および生命思想史を研究しています。執筆者については「このブログについて」をご覧ください。

世界について

現在の世界が一つの世界に定まっているということ。人が歩き、ものを食べ、例えば私が今ここに座っているということ。理由律ということ言葉をはっきりと言葉にする以前から、人は物事には理由があることを知っていた。だから、先なるものから後なるものが生じてきたのだし、後なるものは先なるものによって規定されつづけてきた。

何かあると言えるためには、何かがなければいけなかった。しかし現実の世界は本当に理由を有しているのだろうか。根拠を有しているのだろうか。規則を有しているのだろうか。

現実が理由の源泉であったらどうなるだろう。現実は理由によって生じてきたのではなく、現実が理由を作り上げたのだとしたら。他でもないこの世界が選ばれたのは、他でもないこの世界が選ばれたからだとしたら。他の世界が選ばれなかったのは、この世界が選ばれたからだとしたら。

たぶん特にどうにもならないかもしれない。世界に関する説明がいかに変わろうと世界自体は何も変わらない。世界についての説明を変えることで、より世界が説明できたとしても世界は何も変わらない。世界についての説明が変わることで、変わるのは私たちのほうだろう。私たちは新しいものを作り上げるし、少なくとも私たち自身の歴史を私たちは進めていく。

 

最適と街灯

駅から家までの帰り道。駅の周りはそれなりに明るく、人通りも多いのだが、少し駅を離れるとあっという間に暗い道に出る。とりわけ私の家の近くは、畑ばかりで夜は人もほとんど通らないような場所である。真っ暗かというとそうでもない。最近は街灯が新しいものに付け替えられて、以前のようなぼんやりとした光ではなくなった。ピカァーーっとしていて、ずっと見ていると目がくらむようだ。

それでも、街灯と街灯の間には真っ暗な夜が流れている。そこに少し立ち止まって、暗闇に目を慣らすと、いままで見えなかった星空が見えてくる。とりわけ今日は、雲もなく、空気も澄んでいたのか、星が大盛りだった。星座に詳しいわけではないので、何が何かはわからないのだが、とにかくたくさんの星が見えた。

それでまた少し歩き出すと、例の明るい街灯の下に来てしまう。この下では何も見えない。実は明るすぎて街灯しか見えない。街灯の向こうはかなり暗い道が続いているので、街灯の明かりで暗闇が余計に暗く見えるのである。とにかく明るい街灯をつければよいというものではないらしい。

少しずつ街灯の付け替えが進んでいて、日に日に眩しい街灯が増えていく。これはなんだか逆に不便だぞ、と思いつつ、どこに訴えたらいいのかわからない。星が見えないとかそういうことはまぁ良いのだ。安全面的にも少し問題があるように思うから困っている。

こういう現象を目の当たりにすると物事は単純じゃないのだなぁという気持ちになる。最善であることは、最大であるというよりも、最適であることなのだ。最善世界を提唱する哲学者はこのように考えていた。めちゃめちゃ明るい街灯が最善ではない。適度に明るい街灯が最善なのである。実際の物事に関して、最適を探ることは非常に困難を伴うことかもしれない。最大を目指して突き進む方が単純ではある。

でも、そうすると先の見えない暗闇が広がってしまうのだ。最適を探すことは、一番遠くまで視野を広げることにつながっていく。これは比喩ではない。ただの夜道の話である。夜道を安全に歩くために、考えなくてはならない。

 

紅葉は落ち葉を教えてくれる

今年は少し遅かったのだが、街の木々もだいぶ紅葉しているのに気づいた。私が気づくのが遅かったのか、木々の方が色づくのが遅かったのか。天気予報によれば、木々の方が遅れていたようだけれど、最近あまり外に出ることがないので実際のところどうだったのかは知らない。何にしても今年もちゃんと色づいてくれてよかったと思う。

紅葉は私の注意を落ち葉へと向けさせる。すると落ち葉が不思議なほどに綺麗な色に変容してそこらじゅうに散らばっていることに気づく。変なことかもしれないけれど、落ち葉に気づいて紅葉に気づくのではなくて、紅葉が私に落ち葉を気づかせるのである。だから私は紅葉していない季節には落ち葉を意識することはほとんどない。

落ち葉を見ていると、様々な大きさの葉が落ちていることに驚く。それにいろんな色の葉っぱが落ちている。真っ赤、茶色、黄色、緑、黒くなっているのも…。どの葉も個性的でいつまでも自分のお気に入りの落ち葉を探し続けられるのではないか。

そういえば、次のような話があるのを思い出す。1695年のある日、ライプニッツはヘレンハウゼン王宮である貴族と議論になった。どこにも全く同じ葉は二枚と存在しないというのがライプニッツの主張であり、それに相手の貴族が反論したのである。ヘレンハウゼン王宮の庭園には同じ二枚の葉があるはずだと。それで探し回ってみたのだけれど、結局なかったというのである。なんともお茶目というか、変な話である。ヘレンハウゼン王宮庭園は今でも残っているらしく、ドイツの観光案内によるとヨーロッパ屈指の美しい庭園だということである。いつか行って、私も葉っぱ探しをしてみたいものだ。のんきでいい。

だけれど、わざわざ庭園でそんなことをしなくても、葉っぱはどこでも葉っぱである。どこでも同じようにみな葉っぱであって、それぞれ葉っぱらしさと、葉っぱらしさの中でも個性みたいなものを発揮している。なんであなたは葉っぱなの。葉っぱは答えてくれないけれど、葉っぱは葉っぱなのだろう。

そういう葉っぱが、そこらじゅうに落ちている。紅葉した落ち葉は、見た目も主張しているし、踏めばサクサクと音を立てて崩れるので、嫌でもそちらに気持ちが向いてしまう。秋とか冬はそうやって葉っぱが私にどんどん現れてくる。

落ち葉を拾って語りのんびり語り合いながら散歩をしたいですね。