わたくしごと註解

17-18世紀の西洋哲学および生命思想史を研究しています。執筆者については「このブログについて」をご覧ください。

三木清「哲学はどう学んでゆくか」後半

さて、前半のつづきを書こう。引用はすべて、三木清『読書と人生』「哲学はどう学んでゆくか」からのものである。

前半では、自分の立脚点を定めてそこから他の学説などを学んでいくということが示されていた。後半では、その立脚点を一人の哲学者や学派を選ぶということのみならず、具体的な問題に立脚するということを考えていく。具体的な問題は、科学や人生や道徳など、自身の具体的な所属や在り方から生み出されてくるようである。

諸君がもし自然科学の学徒であるならその自然科学を、またもし社会科学の学徒であるならその社会科学を、更にもし歴史の研究者であるならその歴史学を、或いはもし芸術の愛好者であるならその芸術を手懸りにして、そこに出会う問題を捉えて、哲学を勉強してゆくことである。 

前半でも言ったように、哲学はその対象が曖昧である。それゆえ、学ぶ上では自身の問題設定というものが重要になってくる。上で三木が挙げているような、どの分野であっても、その分野の枠内では処理しきれない問題というものがある。或る科学分野において前提されていることを、或る科学分野それ自体が説明しうるということは少ないのではないだろうか。そのような場面で問題は哲学的になってくる。

三木は、哲学が科学につねに接触していることが重要であると考えているようだ。

元来、哲学が科学に接触しようとするのは、物に行こうとする哲学の根本的要求に基づいている。哲学者は物に触れることを避くべきではなく、恐るべきではない。物に行こうとする哲学は絶えず物に触れて研究している科学を重んじなければならぬ。

「物に行こうとする哲学」という表現は、果たして哲学すべてが物に行こうとすることを表しているのか、それとも、哲学のうちでも物に行こうとする哲学というのがあるのか、いまいちわからない。前者だとすると、哲学が果たしてみな物に行こうとする哲学なのかは疑問だが、それはいまは置いておこう。どちらにしても、伝統的に哲学は科学に触れ続けてきたわけであり、哲学史にしても新しく哲学を打ち立てるにしても、科学抜きには語れない部分が大きいことは確かであろう。

では、哲学はどのように科学に触れるべきか。三木は「つねに源泉から汲むことが大切である」と考えており、「第一流の科学者の著述に向かうことが肝心」なのだという。例としては、ポアンカレ、マッハ、ベルナール、ウェーバーゲーテの自然研究なんかが挙げられている。科学と言っても、数学や物理学にとどまらず、生物学や心理学、さらには社会科学、文化科学、精神科学、歴史科学など、その立脚点は実際どこでも良いのであるという。どこでも良いのだが、しかし次のように言う。

何か一つの学科を選んで深く研究し、できるなら、専門家の程度に達するようにしたいものである。哲学は普遍的なものを目差すのであるが、普遍的なものは特殊的なものと結び附いて存在する。抽象的に普遍的なものを求むべきではなく、特殊的なもののうちに普遍的なものを見る眼を養わなければならぬ。

求められているレベルは専門家の程度である。なかなか大変そうだ。哲学の専門家は、なんらかの科学の専門家でもなくてはならないようだ。なるほど、言われてみればライプニッツは哲学の専門家でありながら、法学博士でもあった(1000年に1人の天才を引き合いに出すのはどうかと思うけれど、実際彼は哲学で修士号をとって、法学で博士号を取得しているのだ)。

科学的な問題から出発する必要は必ずしもない。三木は人生の問題にも目を向けている。彼自身の最初の著作が『パスカルに於ける人間の研究』であることからも、科学だけが具体的な問題の場面だとは考えていなかったのであろう。実際、パスカルモンテーニュの人生論について「彼らの人生論には独特の実証性がある。科学の実証性とは異なっているが、また相通ずるものがある。この実証性に目を留めねばならぬ」と述べている。

さて、科学や人生の問題に立脚して哲学を学んでいくなかで、共通して重要なことは「明晰に思考すること」だという。

学問として哲学を学ぶことは思考すること、明晰に思考することを学ぶことである。もちろん直観にもそれ自身の明晰性と厳密性がある。しかし直観の明晰性や厳密性も、論理的に明晰に厳密に思考することを知らないものには達せられないであろうし、少くとも哲学的に重要なものとはならないであろう。

混沌としていて底の見えないような哲学は深そうにみえるが、深いとは限らないと三木は考えている。「どこまでも澄んでいて、しかも底の知れないものが、真に深いのである」というように、哲学においては常に明晰性が重視される。そのような哲学から豊かさが湧き出てくるのであるが、しかしそのような深さは明晰性以外には一般性を持っていないという。明晰であるうえに、「すべての人間がめいめい独自のものであるように、深さもそれぞれ独自のもの」として存在しているということは、注意しておきたいところである(本当かどうかはさておき)。

明晰性ということで、考えるべきは論理学の存在である。時代だろうが、「今日我が国では誰でも誰も彼もが弁証法」と言っているらしい。三木の考えでは、そういうものから始めるよりもアリストテレス論理学とかカント論理学から始めた方が間違いがないということだ。しかし論理学をやるにしても、それは「物」と常に結びついていなければならない。三木はヘーゲル弁証法を取り上げながらつぎのように述べている。

正、反、合とか、否定の否定とかいった形式を覚えることではなく、物を弁証法的に分析することを学ぶことが問題である。弁証法の形式にはめて物を考えるというのではなく、物をほんとに掴むと弁証法になるというのでなければならぬ。論理は物のうちにあるのでなければならぬ。

「物」の存在を重要視する以上は、論理学は認識論に連なっていく。「論理は具体的には特に科学の論理、あるいは認識論的意味における科学の方法論」として考えられているのである。論理学というのがここではかなり広い意味で捉えられてきているのだと思うのだが、何にせよそういった論理によって、科学各分野において認識を揺るぎないものとしていくのかを考えていくことは重要であろう。

 

結局、私たちはどうやって哲学を学んだらよいのだろうか。前半のはじめにも述べたように、それに答えることは不可能に近いのだろうか。哲学を学ぶとは一体なにを学ぶことなのだろうか。疑問しか残っていないが、そういう疑問を抱えながらでも、論理学を勉強してみたり、哲学書なるものを読んでみたりすることはできる。とりあえずやってみることだ。それでいつの間にか入門できているのであれば、どうやって哲学を学ぶのかわからないにしても、目的は達せられているということで満足できなくはないだろう。

 

 

三木清「哲学はどう学んでゆくか」前半

「哲学ってどうやって勉強したらいいの?」という質問によく出会う。よく言われるように、哲学には生物学や物理学などのようにスタンダードな教科書なるものが存在しない。これを一冊読めばとりあえず大丈夫みたいなものがないのである。一方で倫理学分野の方ではわりと教科書整備が進んでいて、現代なされているメインの議論ということに絞るのであれば教科書もありそうに思う。単純に哲学は領域が広すぎるのであろうか。学問の方法自体を問う姿勢からもわかるように、あらゆる学問を包括する側面が哲学にはある(いちおう言っておくが、包括するから偉いというわけではない。「包括していること」と「価値があること」は全く異なる)。

その広さは哲学の面白さでもあるのだが、同時に哲学を始めたい人にとっては悩みの種となる。生物学が生物を対象にし、物理学が物理現象を対象にするようには、哲学は対象を有していないのである。対象の不確定にもかかわらず哲学が哲学であるといわれるのは、結局その方法論の側に哲学の本質があるということなのだろうか。かといって、哲学には多くの方法論が存在していて一概にいうことはできないし、じゃあ哲学の同一性ってなんなのだという気持ちになる。うーん。

三木清の『読書と人生』という薄い文庫本が家にあった。ぺらぺらとめくっていると、その中に「哲学はどう学んで行くか」という短いエッセイがあったので紹介したい。やはり三木も次のように述べている。

哲学はどう学んでゆくかという問は、私のしばしば出会う問である。今またここに同じ題が私に与えられた。然るにこの問に答えることは容易ではないのである。これがもし数学や自然科学の場合であるなら、どういうものから入り、どういう本を、どういう順序で勉強してゆくべきかを示す事は、或いはそんなに困難ではないかも知れない。それが哲学においては殆ど不可能に近いところに、哲学の特色があるともいえるであろう。

よかった。私が哲学をどうやって学んだらいいかを説明できなかったとしても、私のせいではないようである。安心したところで、彼のいうところに耳を傾けていこう。 

「哲学概論」という名を冠した書物がある。「哲学においては概論書から入ることを必ずしも必要としないし、またそれが必ずしも最善の道でもないのである。始めに概論が読みたいというのなら、何でも一冊でたくさんだといいたい」と三木は述べる。もちろん、概論書に意味がないといっているのではない。哲学においては概論書を最初に読む必要はないというのである。概論だからといって易しいというわけでもないし、それぞれの哲学説を考えるのならば哲学史をしっかりとみる必要もある。哲学概論だからといって哲学入門とは限らないのであろう。

先ず必要なことは、哲学に関する種々の知識を詰め込むことではなくて、哲学的精神に触れることである。これは概論書を読むよりももっと大切なことである。そしてそれにはどうしても第一流の哲学者の書いたものを読まなければならぬ。

第3節で三木はこのように述べている。「哲学的精神」というものが何かわかれば苦労はしないのだが、それは感じるしかないのであろうか。ともかく、そのような精神に最初に触れるのに良いとして挙げられているのは、プラトン著作デカルト方法序説』である。プラトン著作はたくさんあるが、『メノン』とか読んでみたら良いのではないかと私は思う。

上の二冊であれば難解すぎて躓くということはないかもしれないが、中にはフィヒテ『全知識学の基礎』のように難解な言葉で書かれた(悪口ではない)本もある。三木は次のように述べている。

哲学も学問である以上、頭からわかる筈のものではんく、幾年かの修行が必要であるということである。[中略]しかし哲学は学問ではあるが、フィヒテがその人の哲学はその人の人格であるといったように、個性的なところがあることに注意しなければならぬ。従って哲学を学ぶ上にも、自分に合わないものを取ると、理解することが困難であるに反し、自分に合うものを選ぶと、入り易く、進むのも速いということがある。すべての哲学は普遍性を目指しているにしても、そこになお一定の類型的差別が存在するのであるから、自分に合うものを見出すように心掛けるのが好い。

自分に合うか、合わないか、ということが問題だとすると、哲学をどう学ぶかということを一般的に語ることは断念しなければいけないだろう。しかしたしかにそういうところがあるように思う。だから、「自分に合う一人の哲学者、或いは一つの学派を勉強」してそこを立脚点にして他の哲学者などに進んでいくのが良いのだろう。それでも、自分に合うものを選ぶべき、という点に関しては少し疑問がある。哲学を学ぶということは哲学に没入するということというよりは、その哲学に対して疑問を発しては答えを受け取りの繰り返しではないかとも考えられるからである。それでも、少なくとも言えることは、一人の哲学者や一つの学派を選んでそこから学んでいくというのが良いということであろう。

 

少し長くなったので、一旦切ろう。この先で三木は、自分の立場から哲学を学ぶべきだということを述べていく。科学や社会学などの立脚点で問題を捉えて、哲学をそれに沿って学んでいくということである。最初にも書いたが、哲学はその対象が多岐に渡っているのであり、その対象を立てるという意味でも具体的な立脚点が必要になってくるのであろう。

 

マルクス・アウレリウスの比喩:『自省録』第4章より

今日は『自省録』第4章の比喩を見てみようと思う。章ごとに特徴があるということでもないと思うのだが、全12章の『自省録』を比喩に着目しつつのんびり読んでみようという気持ちである。第4章には方向性の異なるいくつかの比喩が登場する。

 

第1節:人間の内なる主と呼ばれるものを、「火」に喩えている。

小さな灯ならば、これに消されてしまうであろうが、炎々と燃える火は、持ち込まれたものを忽ち自分のものに同化して焼きつくし、投げ入れられたものによって一層高く躍り上がるのである。

マルクス・アウレリウス『自省録』神谷訳)

人間の内なる主が自然に従っているのであれば、この「炎々と燃える火」のように他のものに適合していくというのである。人間のうちなる主が、どれだけ火と類比的に語られているのかが気になるところだ。つまり、火は「他のものを取り込む」というだけではなく、「熱い」とか「ゆらめく」とかさまざまな性質を有しているわけだが、そのうちの全ての性質が人間の内なる主と同じであるとは考えづらいということである。

 

第3、4節:宇宙と国家の類比

また宇宙は国家に似たものであるということがどれだけ多くの事実によって証明されているかを思い起こすがよい。 (同、第3節)

もし叡智が我々に共通のものならば、我々を理性的動物となすところの理性もまた共通のものである。であるならば、我々になすべきこと、なしてはならぬことを命令する理性もまた共通である。であるならば、法律もまた共通である。であるならば、我々は同市民である。であるならば、我々は共に或る共通の政体に属している。であるならば、宇宙は国家のようなものだ。 (同、第4節)

宇宙は生き物であるということを考えるならば、人間身体もまた国家に似たものであり、人間=宇宙=国家という類比関係が存在しているようにも思われる。ただし、この類比を成り立たせる類似性が、どれほど推移性(人間=宇宙、宇宙=国家という前提から人間=国家を導き出すようなこと)を有しているかは疑問である。

 

第6節:イチジクの比喩

このような人々であってみれば、彼らの手で自然にこういうことが起こるのは止むをえぬ話である。これをいやだというのは、無花果が酸っぱい汁を持っていなければよい、というのと同様である。(同)

どうやら無花果という果物は古代ローマではありふれたものだったようである。無花果が酸っぱい汁を持っているってどういうことなのか、私はよくわかっていない。誰か知っていたら教えて欲しいところ。

 

第15節:香の粒の比喩

沢山の香の粒が同じ祭壇の上に投げられる。或るものは先に落ち、或るものは後に落ちる。しかしそれはどうでもよいことだ。 (同)

この話は、前節の話から続いている。前節では全体の一部として存在し、自分を産んだものの中に消え去っていくということが語られる。その一部であるということは、それぞれさまざまな境遇に置かれるということであるが、どうなろうが「どうでもよいことだ」とマルクスはいう。個人というものは全然重視されていないように思われる。でも、重視されていない個人は、それでも個人ではあるわけで、そういうものの在り方を考えるのは面白いことだと私なんかは思うのである。

 

第44節:日常茶飯事なものを表す比喩

あらゆる出来事はあたかも春の薔薇、夏の果実のごとく日常茶飯事であり、なじみ深いことなのだ。 (同)

これは非常に美しい比喩である。しかし表現している内容は不思議なことを言っているように思う。どんなに新しいように思われる出来事も結局日常茶飯事なのだとマルクスは考えている。例えば第36節では、「宇宙の自然は現在あるものを変化させ、同じものを新しく作り出すことを何よりも好む……現在存在するものは全て将来それから生ずるであろうものの種子なのである」と述べている。ここには、変化というものに対する独特な考え方を見ることができる。「同じものを新しく作り出す」ということは、同じものでありながら、その相貌を変化させるということであろう。だから、それぞれが種子のように未来のことを含んでいて、少しずつ展開していくということになる。「日常茶飯事」とか「なじみ深い」ということの意味が問題であろう。一体何を表現しているのか。今述べたような他の箇所のことを考えるのであれば、「普通の流れである」というくらいの意味で考えるのがよいのかもしれない。あらゆる出来事は、種子のようにすで含まれていたからこそ、「春の薔薇」や「夏の果実」のように、毎年当然のように生じてくるのである。

 

『自省録』第4章にはもう一つ素晴らしい比喩があるのだが、少し長くなってしまったので、次の記事で書くことにしよう。