わたくしごと註解

17-18世紀の西洋哲学および生命思想史を研究しています。執筆者については「このブログについて」をご覧ください。

さぁ野菜を食べに行こう

外食をしようということになり、「何を食べたいか」という質問をしたら、「野菜が食べたい」という答えが帰ってきた。このようなときに、いったいどこに行くのが良いのだろうか。麺が食べたいという答えであれば、ラーメン屋、パスタ屋、そば屋、うどん屋…選択肢はたくさんあるし、肉が食べたいという答えでも、焼肉屋や焼き鳥屋に行けば、間違えではないだろう。ところが、野菜となると難しい。

たいていのお店には「サラダ」という、野菜を盛ったメニューが存在している。これを頼めば野菜を食べることができる。ところが、何を食べたいか聞いて「野菜」という答えをもらった場合、単にサラダがメニューに含まれていればいいというものでもないだろう。焼き鳥屋や焼肉屋でもサラダを食べることができるかもしれないが、それはあくまで肉のための前座であろう。しっかりしたおもてなしのためには、野菜がそのお店の主要なメニューの重要な部分を占めている必要がある。

外食で野菜を食べるための選択肢としては、私が思いつく限りではこうである。

A) ビュッフェスタイルのお店でバイキング的に野菜をとってくる。

B) ステーキやハンバーグのお店における、サラダバーを活用する。

C) お好み焼き、もんじゃ屋さんで、野菜がたっぷり入ったメニューを注文する。

D) 鍋を食べに行く。

他にもあるかもしれないが、パッと私が思いついたのは以上である。Aはかなり強い。野菜をとることに特化するという意味では、バイキング形式のお店に行くのが単純に正解なのかもしれない。ところが、難点もある。そのようなお店は食べることに特化していることが多く、お酒についてはかなり手薄である。前提にそんなこと書いてなかったと言われればそれまでだが、私はお酒がちゃんと飲めた方がいいのでできれば避けたい。

そこで、Bの選択肢に移る。ステーキ系のお店の野菜バーはかなりいい感じであるし、お酒もそれなりにある。しかし、そこでの野菜はあくまで肉のための野菜である。野菜バーだけを頼むことができたとしても、そこが肉を食べるための場所だという観念から逃れることができない限り、なんだか変な感じがする。

Cの選択肢はどうだろう。お好み焼きや、もんじゃは、実は野菜がたっぷりのヘルシー料理である。キャベツがたくさん入っている。しかも、お酒が充実しているお店が多いのもいい感じだ。選択肢としては捨てがたいところであるが、それでもあえて言うのであれば、キャベツばかりをとるはめになる。キャベツは美味しいのだけれど、お好み焼きやもんじゃのほとんどは、キャベツと小麦粉でできていることを考えると、野菜摂取のなかでもかなり限定的な野菜の摂取である。

Dはどうか。鍋である。これからの季節は鍋を食べるのが最高ではないだろうか。鍋には日本酒も焼酎もあうし、冷えた体を温めてくれる。お店までの道のりは寒いことこの上ないのだが、店に入り、鍋を食べればあっという間にホカホカになること間違いなしだ。このテンションを見てくれてもわかると思うが、結局私がお勧めする野菜を食べるための外食は鍋屋である。鍋はもちろん盛りだくさんの野菜が入っているし、バリエーションもけっこう豊かである。とくにもつ鍋は最高で、お酒との相性が抜群である。

野菜よりもお酒を飲みたい気持ちの方が前面に出てきていないか、という非難を受けそうな気がしてきた。否めない。否めないけれど、お酒を飲みながら、野菜も食べれるという意味では、鍋屋、とりわけもつ鍋屋が最高だろう。

というわけで、みんなでもつ鍋食べに行こう。さぁ。

M. ヘッセ『科学・モデル・アナロジー』:アナロジーの種類

昨日も書いた、M. ヘッセ『科学・モデル・アナロジー』の「実質的アナロジー」の章において、いくつかのアナロジーの型が紹介されている。アナロジーと一口に言っても、はっきりと定義されているのではないがゆえに、様々な型が存在している。今回はそれを書き出しておこう。

アナロジーのそれぞれの型を見る前に、少しだけ用語を確認しておこう。「肯定的アナロジー」「否定的アナロジー」「中立的アナロジー」という三つである。例えば、ビリヤード玉を気体分子に関するアナロジーとして使用する場合、ビリヤード玉の全ての性質が気体分子と同質であるとは考えられない。そこで同質であると考えられているのは、運動や衝突という性質であり、このような性質を「肯定的アナロジー」と呼ぶ。反対に、ビリヤード玉の色や光沢といった性質は、このアナロジーにおいては意味をなさないものであり、それゆえ「否定的アナロジー」と呼ばれる。そして、いまだ同質であるかどうか知られていない性質を「中立的アナロジー」と呼ぶ。この第三の諸性質によって、理論の予測性が与えられる。ABDという性質をもったモデルと、BCという性質をもった被説明項があるとした場合、両者に共通のBという性質から被説明項がBCDという性質を持つという仮説を立てることができる。

それではアナロジーの型を見てみることにしよう。

 

《1》「地球」と「月」のアナロジー

【地球】  【月】

 球形    球形

 大気    大気なし

 人類    ?

このようなアナロジーにおいて、特徴的なのはそれぞれの項に「同一」か「差異」かの一対一対応が成立しているということである。地球と月は「球形」ということで同一であるが、「大気」に関しては差異がある。このとき、月における人類の存在をアナロジー的に知るためには、両者の肯定的アナロジーの程度が重要になってくる。

 

《2》「光」と「音」の諸性質間の科学的アナロジー

【音の諸性質】  【光の諸性質】

 こだま      反射

 大きさ      明るさ

 高さ       色

 耳で感じる    眼で感じる

 空気中を伝播   「エーテル」中を伝播

さきほどのアナロジーとは異なり、対応する項を同一か差異かでわかることはできない。それらは、類似の関係にすぎないからである。それでも、類似によって一方から他方の性質を導くことができる。たとえば、音における或る性質に対応する項がないように思われたときなどには、光において新たな項として「エーテル」を仮定することができる。

 

《3》分類体系におけるアナロジー

【鳥類】  【魚類】

 翼     ヒレ

 肺     エラ

 羽毛    うろこ

このような分類のアナロジーは、アリストテレスによって最初に語られた。横の関係は構造や機能における類似性であり、これもまた予測に用いることができる。たとえば、鳥の骨格の既知の構造から魚の骨格の未発見の部分を推論することができる。

 

《4》政治的レトリックなどで用いられるアナロジー

父/子供=国/市民

このアナロジーは、父親と子供の関係が、国と市民の関係と同じであることが述べられる。しかし、このアナロジーは他のアナロジーと三つの点で異なるという。第1に、その目的が予測ではなく説得であるということ、第2に縦の関係が因果関係でないということ、第3に横の関係が類似ではないということ。 

 

以上のようにヘッセは4つのアナロジーを紹介している。政治的レトリックとしてのアナロジー以外は、縦と横の関係が非常に重要である。すなわち、縦には因果関係が成立しており(分類体系のアナロジーではそれが薄いが)、横に関しては何らかの類似性が成立している。ここでいう因果関係とは、かなり広い意味でとられていて、共起の傾向くらいの意味で理解されるだろう。

M. ヘッセ『科学・モデル・アナロジー』:観測不可能への歩み

科学の理論というものが, 経験的なデータに「説明」を与えるためのものであるならば, その理論を何らかのモデルを用いて理解する必要があるだろうか. あるいは, その理論を馴染みの対象や出来事とのアナロジーによって理解する必要があるだろうか. 

これは、M. ヘッセ『科学・モデル・アナロジー』(高田訳)の冒頭の一文である。この問題に関して、デュエムとキャンベルという二人を筆頭に物理学者たちの論争があったことが紹介されている。

デュエムは1914年に出版した『物理学理論 La Théorie physique』において、滑車や歯車、ひもやフックなど機械仕掛けのモデルないしアナロジーによって理論を解説しようとする試みは本質的ではないと考えた。たしかにモデルは発見の役にたつかもしれないが、演繹構造をもった数学的な体系のように永続的な意義をもつことはない。

一方で、N. R. キャンベルは1920年に公刊された『物理学, その基礎 Physics, The Elements』において、デュエムの見解に真っ向から対立することになる。すなわち、デュエムたちのように、モデルを理論のための「単なる補助手段」として考え、理論が展開してしまったあとはモデルを捨て去ることができるという人々に対立するのである。キャンベルはデュエムに対して大きく分けてふたつの批判を浴びせる。第一に、「理論が現象の説明であるとするならば, 理論によって, われわれの知性は満足させられるはず」である。満足とは、理論の単純さや経済性といった形式的特徴だけではなく、その理論を実際の事象として理解するための理解可能な解釈が存在していることを指す。モデルが捨て去られてしまうということは、そのような解釈を拒否することにもなる。第二に、理論は「動的な」性格をもっているのであり、新しい理論のために絶えず拡張されなくてはならない。モデルがなければ、新たな現象を予測するということができないのではないか。

この二人の主張は決着のつかないまま現代に至っているが、それでもヘッセが述べるところでは物理学者の多くは本質的にはデュエムのほうに同意している。というのも、量子力学には理解可能なモデルがない(正確には一つのモデルで理解可能なモデルがない。波モデルと粒子モデルを組み合わせるという方策はあるかもしれない)というような事態があるからである。

この本の著者であるヘッセ自身はキャンベル主義の側に立つ。

モデルなしには, 理論に要求されてきた機能のすべてを果たすことができない, とくに真に理論が予測するものにならない, というキャンベルの主張には, 今日でも真理が含まれていると確信している. 

基本的にモデルというのは観測可能な体系として考えることができる。空気粒子の運動は目には見えないが、それを私たちはビリヤード玉モデルで理解することができる(これはホイヘンスの例らしい)。それゆえ、このモデルと理論という考え方は、経験からどのように理論を予測していくかということに関わる。モデルと理論の間のアナロジーは、観測可能な領域と観測不可能な領域との対応をもとに予測を進めていくことになる。

このような、観測可能性と観測不可能性の対は、モデルと科学的理論という対には止まらない。つまり、このようなアナロジーの方法はもともと人間理性が神的な領域を知るための方法でもあったということである。現代では科学的理論に関してのみモデルの有用性が語られるのであろうが、数百年前に遡ればそれは観測不可能な〈メタ〉フィジックな領域に関しても有用であったはずである。

ライプニッツは概念や観念でのみ捉えられる存在についての認識を、「盲目的認識」とか「記号的認識」などと呼び表した(『認識・真理・観念についての省察』)。このような認識は、単純な観念の組み合わせとして考えられており、直観的にそれが何であるかということを語ることができない。それが何であるか語ることのできないものを、人間にとって何かであるというためには、すでに理解されているものから解釈するしかないだろう。例えば千角形はパッと見はいくつ角があるのか理解することのできない図形である。その図形に千個の角が存在しているということを理解するためには、三角形の三つの角のようなものが、千集まっているのだろうということを考える必要がある。そのとき三角形のようにパッと見でそこに千個の角を認識するのではないにしても、千個の角を持つものとして千角形を理解し、千個の角を持つということが三角形という観測可能なものからの類推として成立する(もちろん三角形というのも理念的なものなので、もっと言えば、モデルとして三角形の模型を作るということから始めるべきなのかもしれないが)。

観測できないものについて語ることは、仮説的なものが入り込んでくることは確かである。モデル選択の正しさは、モデルから理論を組み立てていくことにおいて、モデルと理論の往復で不整合が生じてこないということによってのみ保証される。一つのモデルが最後までうまくいくとは限らないのであるが、それでも不整合が生じない限りは遅々としてでも進んでいくことができる。近代形而上学を発展させた人々は、科学革命によって得られたモデルを駆使して捉えがたい領野を推し進めていった。科学の革命が「無限」を生み出し世界の底を抜いてしまったことは確かかもしれないが、同時にその革命によって得られた技術は、人々にモデルを提供し、形而上学的領野へと進む方策をも提示したのだと思う。

 

Models and Analogies in Science

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科学・モデル・アナロジー

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