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CORPUS ORGANICUM

日々の雑記。

モナドと窓

窓から光が差し込む。窓を開ける。すると、鳥の鳴き声とともに外の空気が入り込んでくる。少し寒くなって窓を閉めた。傾いた太陽の光がまっすぐに窓を突き抜けて、やはり私の元へとやってくるのだった。

私たちの魂は神や宇宙を表出するのであり、あらゆる現実存在と同様にあらゆる本質もまた表出するのである。このことは私の諸原理に一致する。なにしろ、自然的には精神はその外部からいかなるものも入らせることはないのであり、私たちの魂があたかもなにか伝達される形象を受け取ったり、扉や窓を有していたりすると考えることは、まさに悪い習慣なのである。(『形而上学叙説』§ 26)

モナドは、それによってなにかが出たり入ったりするような窓を持っていない。(『モナドロジー』§ 7)

モナドには窓がない」という言葉は、その比喩的な豊かさを伴って、多くの人々の間で反復的に使用されてきた言葉である。その意味するところは、こうして引用を少し見てみればわかる通り、能動知性–可能知性理論への反論であり、外部から何かがやってくることの否定である。

ここで、「モナドには窓がない」ということは、はたして「私には窓がない」ということと同じことなのだろうかという疑問が生じる。モナドは私なのだろうか。完全にすべての述語(出来事)がそろっているという点では、すくなくともモナドというカテゴリーに私は入ってくるだろう。この事態をもう少し比喩的にいえば、私の家には生活に必要なすべての家具や食料や日用品が最初から揃っているという状態であり、某宅配サービスは必要ないということである。

ところが、ライプニッツ「窓」の比喩が意味することは、実在的なものの流入の話に限定されていることに注意しなければならない。私たちはあらたな家具も食料も必要としない。それはたしかである。しかし、いつこのストーブに薪をくべるのだろうか。それは寒くなったときに、である。部屋は勝手に寒くなるだろうか。いやそうではない。外が寒くなるから中もまた寒くなるのである。ライプニッツは無理由を認めない。部屋が寒くなるからには何か理由があり、それは外部との関係ということがすでに自らの述語にふくまれているということである。つまり、窓の外すべてが内部化されているということであり、「窓がない」のではなく「窓しかない」とも言える(この場合は実在的な流入ということの比喩ではなく、「見ている」ということの比喩としてではあるが)。

私たちが完足的(十分にすべて揃っている)であるということが、逆に外部への関係を必要としている。これはあくまで観念的な関係であり、何かがでたり入ったりすることとは厳密に区別しなければならないにしても、である。「モナドには窓がない」という存在論的前提から帰結するのは、「モナドには窓しかない」(何度も注意して言うが、この窓の比喩は実在的な何かのやりとりという相互関係ではなく観念的相互関係を表現する)という認識論的要請であろう。私たちの不完全性、質料性、パースペクティブ性は、そのような外部との関係を必要としている(私たちはすべてを自らのうちにみる神ではないのだ)。

モナドには窓がない」ということが、私たちに窓を開けて外の誰か何かとの交渉を要請する。そして、お互いが判明なモナドであるということが、おしゃべりを可能にする。ときに受動的に相手の言葉を受け入れ、ときに能動的に相手に言葉を伝えること、判明なモナド同士の対話は、こうである。

やがて死はモナドの判明さを闇の中へと転落させる。そのとき、もうおしゃべりは成り立つことがない。相手の声は聞こえない。しかし、ある人が残した作品や言葉が私に影響をあたえることがある。これはすでに判明でなくなったモナドにとって一体なんなのだろうか。私の空想なのだろうか。それが空想だとしても、私自身の判明さはすでに死という状態にあるモナドに観念的にであれ結びついているように思われる。意識を持たないモナドが判明だということがあるというのだろうか。

答えがでないことがある。そういうときにこそ、窓を開ければよいのだろう。外に出ればよいのだろう。鳥がなにか教えてくれるかもしれない。

悲しみにつける薬のために

夢を見た。護岸がしっかり整備され、鉄柵が人の侵入を防ぐほどに手の入った河川の横の細い歩道で「これは二年前に亡くなった妹の指輪なのだ」と言いながら、私にそれを手渡した人がいた。「だけど、まだ会いに行けていない」そう言って、その人はうつむいた。薄暗い街灯はその表情を全くの暗闇に隠してしまった。

私は何かしてあげなくてはならないような気がした。何か気の利いた言葉をかけたり、気の利いた行為をしたり、気の利いた…。けれど、そのような気の利いたことは何一つ思い浮かぶことはなかった。

悲しみという感情を私は避け続けて生きてきた。悲しみという感情は知らない家の子だ。何をするのかわからない。忌避は無知だ。だから、私ではない誰かがその悲しみと付き合おうとしているとき、その状況は私にとって真っ暗闇にしか見えない。ただ呆然と立ち尽くすだけである。その人の前に。

私は壊れた機械を見ると直してみたくなる。扇風機のスイッチが壊れたときには、ドライバーを持ち出して分解してみたりもしたし、時にはマイナスドライバーでこじ開けたりもした。たいていの場合、機械を直す試みは失敗したし、むしろ悪化させた。

何がいけなかったのか。明白に、明確に、機械というものについての無知ゆえにである。無知なものに手を加えることはいつでも危険が伴う。

他人の悲しみという全くの暗闇を前にすると、私はあらゆる可能性に思いを巡らせることになる。そしてどの可能性もが同じだけの確からしさで脳内を過ぎ去っていく。なにもかもが、同じだけ。それでも、私は何かしてあげなければならないのだという、誰に言われたのでもない責任を感じることになる。

でも、そうではないのかもしれないと思っている。つまり、責任を感じることなどないし、何もしてあげる必要はないのかもしれないと思っている。行為することと、行為しないことは、能動的なものとそうでないものとして、前者を持ち上げがちである。けれど、何かしてあげなくてはならないように思われる場面で何もしないことを選べるのだとしたら、それは十分に能動的ではないか。それはもちろん、仕方なく何もしないということとは異なっている。責任を感じつつ、あえて何もしないということ。そして、何もしないということが私とその相手の関係性において最善の選択である場合が少なくないように思うのである。

他人の悲しみをどうにかするために、私からはなにもしないということ。結局これは、私が悲しみを知らないがゆえに、唯一のものとして出てきてしまった答えでもある。無知でないことに対しては、何かしらの道を見出す可能性もありえなくはない。それゆえに、私自身の怠慢の結果が、責任による咎めであり、後ろめたさであろう。「私はそれは知らないので、関係できません」と言って去っていくときの後ろめたさ。

相手のうつむいた表情に広がる全くの暗闇は可能性の嵐である。同時に、私の無知でなかった可能性がスポットライトに照らされて責任を主張する。暗闇の可能性と照明の可能性の間で、私自身はただどちらにも背を向けて歩く。どちらにも背を向けて私であることしかできないのだとつぶやく。

何かに合うものを見つけるということ

或る一つの事物があったとき、それはそれだけで良いものである、ということが少なくない。白米は白米だけで美味しいという人もいるように。

それでも、私はそれだけでも良いものに、なにかもう一つ合わせたいと思う。白米には納豆なり、漬物なり、なにか付け合わせたいのだ。白米の場合、付け合わせは多くの人々によって研究されていて、「ごはんがすすむ君」なる商品まである。付け合わせの選択肢に迷うことはあれ、スーパーに行って何一つそれらが見つからないということも考えづらい。

なんども繰り返される事物については付け合わせを考案し皆で共有することもできなくはない。「ここにはこれだろう」というもの、例えば青空には飛行機雲なんかがいい。草原には風だ。馬でもいい。

でも、じつは世の中のたいていの事物には、共有された付け合わせのモデルが存在していない。「今宵」はどうだろう。一般的な意味での今宵ではない、今日という日に限定された「今宵」である。今宵というものに、いったい何を合わせるのがいいのか。

例えばの話である。例えば、「今宵」に何か音楽を合わせたいと思ったならば、どの音楽を選ぶだろうか。私は彼の音楽を聴くことにした。

soundcloud.com

 

「今宵」に合う音楽を見つけられるように、生きたいと思う。今宵だけではない。それだけで良いものに出会うだけでは物足りない。他にはない組み合わせで、これこそが良いのだと思い込んでいよう。

自然そのものについて

自然そのものとはなにか。自然の二文字がくっついた概念は、ちょっと考えただけでもわりとある。自然権自然言語自然宗教自然主義、自然状態、自然神学、自然哲学、自然法…最近では、自然食品、自然保護、自然化粧品……。

日本語では nature に「自然」もしくは「本性」という語をあてることが一般的である。とりわけ、この「自然」というものに着目したい。どうやら、この訳語が導入される当時には「天地」「万有」「造化」などという訳語も存在したらしい。「天地」も「万有」も〈もの〉を指し示す語であり、「造化」は〈作用〉を指し示す。「自然」という語が示すのはただ「自ら然る」であり、それ以上のことをこの二文字自体からは読み取ることができない。〈もの〉や〈作用〉の具体性は「自然」という〈状態〉を表す言葉よりもはるかに強いように思われる。しかしそれでも、近代西欧的な nature の用法、すなわち外的対象一般を指し示す(その意味では「天地」や「万有」という意味に近い)用法も入ってくることになる。〈もの〉として外的に存在するものとしての自然である。こうして、「自然」という語には大きく〈状態〉と〈もの〉を指し示す意味が存在している。

西洋古代に目を移せば、アリストテレスが自然を広い意味での運動の原理と考えている。広い意味というのは、単に位置の移動を考えるのみならず、生成消滅や質の変化、量の増大減少までも含みこむということである。ここで原理とは生み出すものであり、その意味では自己生成的な自然が読み取られることになる。それは、自然そのものに内在的な働きを認めることである。

それと顕著な仕方で対立するのは、近代西欧、とりわけ科学革命以降の自然観であろう。その時期の代表的な自然観は機械論的自然観と呼ばれるものである。自然を幾何学的延長に還元すること、精神から切り離すことに重点が置かれる。この意味で西洋古代における自律的で自己生成的な自然概念から距離を置くことになる。

これは時代の大局であり、細部を詳細に検討するのであれば、その各時代に反発や賛成が入り混じっていたことは言うまでもない。しかし、自然をどのように見るかということは常に重要な事項であったというのは確かである。

問いは改められなければならない。私の「自然そのものとはなにか」という問いは、自然哲学的な意味での問いではない。むしろ問いは「なぜ多くの人々が自然を考えなければならなかったのか」という、非常に人文社会学的な問いである。自然を考えるという人間の営みの意味を解釈することが問題である。

 

世界について

現在の世界が一つの世界に定まっているということ。人が歩き、ものを食べ、例えば私が今ここに座っているということ。理由律ということ言葉をはっきりと言葉にする以前から、人は物事には理由があることを知っていた。だから、先なるものから後なるものが生じてきたのだし、後なるものは先なるものによって規定されつづけてきた。

何かあると言えるためには、何かがなければいけなかった。しかし現実の世界は本当に理由を有しているのだろうか。根拠を有しているのだろうか。規則を有しているのだろうか。

現実が理由の源泉であったらどうなるだろう。現実は理由によって生じてきたのではなく、現実が理由を作り上げたのだとしたら。他でもないこの世界が選ばれたのは、他でもないこの世界が選ばれたからだとしたら。他の世界が選ばれなかったのは、この世界が選ばれたからだとしたら。

たぶん特にどうにもならないかもしれない。世界に関する説明がいかに変わろうと世界自体は何も変わらない。世界についての説明を変えることで、より世界が説明できたとしても世界は何も変わらない。世界についての説明が変わることで、変わるのは私たちのほうだろう。私たちは新しいものを作り上げるし、少なくとも私たち自身の歴史を私たちは進めていく。

 

最適と街灯

駅から家までの帰り道。駅の周りはそれなりに明るく、人通りも多いのだが、少し駅を離れるとあっという間に暗い道に出る。とりわけ私の家の近くは、畑ばかりで夜は人もほとんど通らないような場所である。真っ暗かというとそうでもない。最近は街灯が新しいものに付け替えられて、以前のようなぼんやりとした光ではなくなった。ピカァーーっとしていて、ずっと見ていると目がくらむようだ。

それでも、街灯と街灯の間には真っ暗な夜が流れている。そこに少し立ち止まって、暗闇に目を慣らすと、いままで見えなかった星空が見えてくる。とりわけ今日は、雲もなく、空気も澄んでいたのか、星が大盛りだった。星座に詳しいわけではないので、何が何かはわからないのだが、とにかくたくさんの星が見えた。

それでまた少し歩き出すと、例の明るい街灯の下に来てしまう。この下では何も見えない。実は明るすぎて街灯しか見えない。街灯の向こうはかなり暗い道が続いているので、街灯の明かりで暗闇が余計に暗く見えるのである。とにかく明るい街灯をつければよいというものではないらしい。

少しずつ街灯の付け替えが進んでいて、日に日に眩しい街灯が増えていく。これはなんだか逆に不便だぞ、と思いつつ、どこに訴えたらいいのかわからない。星が見えないとかそういうことはまぁ良いのだ。安全面的にも少し問題があるように思うから困っている。

こういう現象を目の当たりにすると物事は単純じゃないのだなぁという気持ちになる。最善であることは、最大であるというよりも、最適であることなのだ。最善世界を提唱する哲学者はこのように考えていた。めちゃめちゃ明るい街灯が最善ではない。適度に明るい街灯が最善なのである。実際の物事に関して、最適を探ることは非常に困難を伴うことかもしれない。最大を目指して突き進む方が単純ではある。

でも、そうすると先の見えない暗闇が広がってしまうのだ。最適を探すことは、一番遠くまで視野を広げることにつながっていく。これは比喩ではない。ただの夜道の話である。夜道を安全に歩くために、考えなくてはならない。

 

紅葉は落ち葉を教えてくれる

今年は少し遅かったのだが、街の木々もだいぶ紅葉しているのに気づいた。私が気づくのが遅かったのか、木々の方が色づくのが遅かったのか。天気予報によれば、木々の方が遅れていたようだけれど、最近あまり外に出ることがないので実際のところどうだったのかは知らない。何にしても今年もちゃんと色づいてくれてよかったと思う。

紅葉は私の注意を落ち葉へと向けさせる。すると落ち葉が不思議なほどに綺麗な色に変容してそこらじゅうに散らばっていることに気づく。変なことかもしれないけれど、落ち葉に気づいて紅葉に気づくのではなくて、紅葉が私に落ち葉を気づかせるのである。だから私は紅葉していない季節には落ち葉を意識することはほとんどない。

落ち葉を見ていると、様々な大きさの葉が落ちていることに驚く。それにいろんな色の葉っぱが落ちている。真っ赤、茶色、黄色、緑、黒くなっているのも…。どの葉も個性的でいつまでも自分のお気に入りの落ち葉を探し続けられるのではないか。

そういえば、次のような話があるのを思い出す。1695年のある日、ライプニッツはヘレンハウゼン王宮である貴族と議論になった。どこにも全く同じ葉は二枚と存在しないというのがライプニッツの主張であり、それに相手の貴族が反論したのである。ヘレンハウゼン王宮の庭園には同じ二枚の葉があるはずだと。それで探し回ってみたのだけれど、結局なかったというのである。なんともお茶目というか、変な話である。ヘレンハウゼン王宮庭園は今でも残っているらしく、ドイツの観光案内によるとヨーロッパ屈指の美しい庭園だということである。いつか行って、私も葉っぱ探しをしてみたいものだ。のんきでいい。

だけれど、わざわざ庭園でそんなことをしなくても、葉っぱはどこでも葉っぱである。どこでも同じようにみな葉っぱであって、それぞれ葉っぱらしさと、葉っぱらしさの中でも個性みたいなものを発揮している。なんであなたは葉っぱなの。葉っぱは答えてくれないけれど、葉っぱは葉っぱなのだろう。

そういう葉っぱが、そこらじゅうに落ちている。紅葉した落ち葉は、見た目も主張しているし、踏めばサクサクと音を立てて崩れるので、嫌でもそちらに気持ちが向いてしまう。秋とか冬はそうやって葉っぱが私にどんどん現れてくる。

落ち葉を拾って語りのんびり語り合いながら散歩をしたいですね。