p. 360 から。

日々の雑記。

鈴虫を楽しむ蒙昧な私

黒電話の呼び鈴は鈴虫の音のようであるし、電線は蜘蛛の巣のようである。いや、本当は全然ちがうのだ。けれど、それを同じようなものとして感じることがままある。

反対もある。鈴虫の音が鳴り響く草むらはきっとコールセンターだし、上手にめぐらされた蜘蛛の糸は非常事態のホットラインかもしれない。

この思考の様式に正しさはないが、楽しさがある。自然を擬人化することは、それらが持っている意味を人間自らに強引な仕方でひきつけることだ。鈴虫はなんのために草むらで鳴くのか。なぜ蜘蛛は糸をはりめぐらすのか。求愛、捕食、それらは、結果である。

もしかすると、鈴虫は求愛のために歌うのではなく、それこそ私たちが歌うときのように、歌うことを楽しんでいるかもしれない。あるいは、蜘蛛は糸の長さを競い合っているのかもしれないのだ。私たちが知ることのできるのは彼らが行ったことの結果だけである。意図しない結果というものが世の中にたくさんあるが、それと同様に、鳴いたり糸を吐いたりする理由は本当のところはよくわからないままである。

擬人化された意味を楽しむことは一種の蒙昧であるかもしれない。しかし、そもそも人間は無知であり蒙昧なのではないか。そして、その蒙昧によってしか得られない楽しみもまたあるのではないか。

それが不明瞭な精神の戯れであることは間違いない。楽しみそのものとは、それで全てが満たされるべきものではないのであるが、避けられるべきものでもない。それはそれとして楽しいのであり、せっかくだから楽しめばいいのだ。

 

 

Spotlight検索の画面でファイルの場所を表示する方法

FInder 検索で検索したときのように、Spotlight 検索を使ってファイルの場所を特定する方法について

ふだんから Spotlight 検索をショートカットに登録して使っているので、こちらを使用してファイルの場所をサッと確認したい(アルフレッドを使うべきと言われるかもしれないが、デザインがあまり好きではないのです…)。

普通に Spotlight 検索を使用すると、素早くファイル名は確認できるもののそれが属している場所を確認することができない。これは、たとえば、ちゃんとファイルが整理されているかを確認する際などにちょっとだけ困ることになる。

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図1
この画面の状態で、ファイルの場所を確認することができると非常に便利。

方法は簡単で、検索したファイルを一度クリックして青くした状態で、コマンドキーを押せばよい。下の方にファイルの場所をすっきり表示してくれる。

また、コマンドキーを押しながらファイル名をダブルクリックすると、Finder でファイルの存在しているフォルダーを開いてくれる。

以上の方法を使えば、素早くファイルを整理整頓することが可能になるので覚えておきたい。

確信の背後で虚焦点となりゆくものへ

大半の人は興味がないであろう、私の個人的な悩みの話である。

ある物事を意味づけることについて、以下の文章を引用するところからはじめよう。

秘所は人間が自然を意味づけし、自然を思想化して、はじめて成立する。だから宗教的に意味づけのない自然は、いくら美しく神々しく見えても、それは一枚の絵葉書のような単なる自然の風景でしかない。修験道では、 “ 自然としての風景 ” と “ 観念としての風景 ” 、いいかえれば、“ 視える世界 ” と “ 視えない世界 ” を二重合わせにして視なければならないのだ。(内藤正敏修験道の精神宇宙 出羽三山のマンダラ思想』青弓社, 1991, p. 115. )

ある出来事はコンテクストの中に位置づけられて初めて意味を持つ。だから、自分の行為を「すべきこと」であったり、「必然的なこと」として捉え返すためには何らかの物語に位置付けてあげなければならない。というのも、そういった規範や必然性は意味の一種だからである。

ここでいうような必然性は単に因果の必然的な関係や、数学の必然的な帰結のようなものではない。厳密には必然的ではないような必然性がある。つまり、他でもありえたのにもかかわらずこうなったのだが、こうなるべくしてこうなった、という必然性の話である。それは、「可能性」の選択の話ではなく、可能性の「選択」の話である。

必然性はコンテクストとの結び付きによって初めて可能となる。もちろん物語に結びつけることがそのまま必然的なものとなるわけではない。ここでいうような、厳密でないような必然性は、変な言葉ではあるが、程度的な必然性である。確からしさや蓋然性といったものに近い必然性である。コンテクストに結びつけることは、そういった意味での程度的な必然化を引き起こす。

 

ある出来事が必然的であったり、するべきであったりすることは悪いことではない。そして、コンテクストに結びつける方法は無数に存在する。網の目状に関係付けることも可能だし、一つの出来事に重心を置くようなコンテクスト化もまた可能であろう。そのような関係づけの形式のありうる選択肢のなかで何を選ぶかということ自体、意味づいた出来事の様相に大きく影響を与える。そして、とりわけ自身の歴史性の一点に重心をおくようなコンテクストを作り上げる形式には危険性がある(しかし、私はこの立場にあるということが悩みを引き起こすのである)。どういうことか。

初恋というものがある。それをどう捉えるかは様々な人が様々なことを考えているとは思うが、とりあえず私は何度も振り返られる恋を初恋と呼ぶことにしている。最初の恋ではない。最初の恋が何度も振り返られるならばそれは初恋だが、忘れ去られてしまった恋はもう初恋ではないのである。何度も振り返るというのは、何度も参照を繰り返し、その度に現在に結び付ける作業である。そして、あらゆる物事へと結び付けていくとするならばそれは結局のところ、初恋という自身の歴史性の一点に重心をおくようなコンテクストを作り上げることなのである。

物語化によって、単に現在の出来事を意味づけているつもりである。しかし、それは現在の意味を重心へと再び結び付け返す作業と表裏である。個々の現在を意味づけるうちに、たった一つの歴史的重心は非常な重荷を背負っていくことになるのだ。同時に、歴史性が本質的に過去に関わるものであることは、忘却を含意する。夢は忘却を本質とする最たるものであるが、過去もやはりそうであろう。消え去り行く重心、それは確かにあったはずのものなのだが、やがて虚焦点となりゆくものなのである。

そのような虚焦点へと向かう一点を、それでもなお、あらゆるものの中心にすえて意味づけようとすることが(少なくとも私にとっては)問題なのである。意味づければ意味づけるほどに重みをます重心が徐々に消え去ってしまうことは、避けようのないことなのか。忘れ去られて虚焦点となることは、しかし、本当に「虚」となることなのか。全てを支える重心それ自体は、何によって支えられるべきなのか。

意味づけることは簡単だ。やるべきこともわかる。そして、こうなるべくしてこうなったという確信もある。しかし、問題は、この確信の基礎が消えゆくものであるということである。山は山としてもちろんそこにある。しかし問題は、私の歴史性との結びつきの中で捉えられた山である。記憶の中の山である。夢の中の山である。消えゆく山なのだ。この消えゆく山の問題を放置すれば、いつか全ての意味は瓦解してしまうのではないか。

これが、私の個人的な悩みである。

 

 

ヴィトルト・リプチンスキ/春日井晶子訳『ねじとねじ回し』(早川書房)に関する覚書

20世紀の終わりごろ、それまでの1000年間で最も偉大な道具がなんであったのかを調査した建築学者のエッセイである。ハンマーも、のこぎりも、古代ギリシアからずっと改良を重ねながら使われ続けてきたものだった。しかし、「ねじ」と「ねじ回し」はそうではない。あるとき、突然変異的に出てきた道具であった。

注意しなければならないのは、狭義のねじ部品と、広義のねじ基本をしっかり区別しなければならない点である。ねじ基本とは、ねじ山などのねじの原理であり、ねじ部品とはねじ全体を指して言われる。ねじ基本は、古代ローマ古代ギリシア時代から、圧搾機やアルキメデスの水揚機などで使われ続けてきた。しかし、それがねじ部品として、つまり釘と螺旋の組み合わせとして使用され始めたのは、ねじ基本の発明から少なくとも1400年の期間をおいてのことだったのである。

ねじと釘の違いは大きい。釘は打ち込まれた後、左右からの圧力で固定される。一方、ねじは左右の圧力に関係なく固定される。仕組みの複雑さが一次元異なっている。この転換はある種の詩作的発想力の賜物であると著者は考えている。例えば、フランスにおける蒸気機関のパイオニアだったE. M. バタイユを引用して「発明とは、科学の詩作ではないだろうか。あらゆる偉大な発見には詩的な思考の痕跡が認められる。詩人でなければ、何かを作り出すことなどできないからだ」(p. 130)と述べている。この意味で、ねじとは特定の問題を解決するために発達した枠付きの大のこや、ソケット付きハンマーとは一線を画する発明だったという。

しかしその一方で、著者は次のようにも述べている。「古代ローマでは火縄銃も背出し蝶番もなかったので、ねじのような小さくて効率的な締め具はたいして必要なかったのだろう。…技術上のさしせまった要請がなかったわけだ。つまり、1400年後にようやく機械屋の詩人が気づいたのだ。オリーブの実を潰したり、折れた骨を伸ばしたり、観測器具を調整したりできる螺旋なら、ねじ山のついた釘として使うこともできる、ということに」(p. 148)。ここで言われる「要請」とは「特定の問題を解決するためではない」ということとどのように相容れるのだろうか。

ここに、ねじをはじめ、曲がり柄錐や卓上旋盤といった突然変異的な発明(徐々に発達するのではない仕方での発明)の面白いところがある。時代状況は少なからず何かを要請してくる。火縄銃の登場は、小さくても緩まない締結部品の発明を要請した。釘では明らかに代用不可能な締結部品である。しかし、必要性から発明までが全くシームレスではないのである。必要があるから釘に螺旋を付け足せばいいという仕方でねじは発明されないということである。そもそも、釘の原理とねじの原理は全く異なっている。このことから言って、釘が有する特定の問題、緩みやすさや、大きさといったものの解決は、釘に対する問題解決という仕方では行われなかった。それは、より大きな時代的な問題解決の次元でなされたのであり、釘とは断絶的な詩的発明であると言える。

これは著者の書いていることを逸脱した一つの解釈にすぎないが、要請と詩作性の両立のなかで発明された「ねじ」を語るにはこの道が適当であるように思われる。問題解決ということが、何にとっての問題解決なのか、つまり「釘の問題」なのか「時代としての問題」なのか、この違いをこの著書からうまく読み取ることができなかった(読みが足りないせいかもしれないし、エッセイだからそんなに厳密ではないのかもしれない)。時代としての必要性であれば、ねじは、ねじでなくてもよかったと言える。他の全く異なる原理が細かな部分で強力な締結部品として使用されていた可能性もあるのだ。これが詩的であることの内実ではないか。

この点で、私の「ねじ」理解は翻訳者と異なってしまっていることも注意しておかねばならない。というのも翻訳者は、文庫版が出版されるにあたってのあとがきで、つぎのように書いているからである。「もしねじがなかったら…という仮定は無意味であろう。なぜなら、人類の歴史のどこかの時点で必ず、ねじは必要とされ、生み出され、有名無名の職人の工夫や努力を宿らせて、私たちの生活を支える裏方となったはずだから」(p. 181)。しかし、時代の要請は、あくまで釘の改良ではなく、新たな締結部品を求めたのではなかったか。そしてそれは、螺旋を本質とする締結部品である「ねじ」でなくともよかったし、その登場はあくまで詩作的な創作、自由な精神の所産だったのではないか。

何にせよ、人間のものづくりという営みは、考えるべきことが多い。今後ものんびり考えていきたいテーマである。

 

静かな音楽と音楽サービス

ここ数年、静かな音楽を聞くようになった。

中学生の頃ギターを始めた。ロックやフォークを聞くことが多かった。合唱もやっていたので、合唱曲もよく聞いていたし、友達に教えてもらってハイフェッツの素晴らしいヴァイオリンさばきに耳を傾けていたこともあったが。高校に入って、吹奏楽を始めた。打楽器パートを担当することになり、吹奏楽曲をはじめ、打楽器アンサンブル曲という非常にコアなジャンルまで聴くようになった。これがなかなかいいのである。大学では山田流で箏を始めた。箏曲や三曲といった邦楽はほとんど聞いたことがなかったのだが、それなりに良さはわかるようになった。独特のリズム、拍感のなさ、そういったものに親しんだ。大学院に入って特にあたらしい楽器をはじめることもなく、なんとなくいろんな音楽を聞いていた。

こんな感じで中学生のころから様々な音楽を聴いたり集めたりしていたのだけれど、あるとき、音楽を保存していたHDDが壊れてしまったのである。なるほど、そういうこともあるだろう。バックアップもとっていなかったので悲惨だった。いくらか手持ちのCDもあったのだけれど、また読み込んだりするのが面倒で、しばらく音楽を聴く生活からは離れることになってしまった。

apple musicというサービスがそのころ始まった。なんとなく音楽がいろいろ聴けるの便利そう、くらいの気持ちで登録してみると、たしかにものすごく便利だった。ふと思ったジャンルの音楽をすぐに聴くことができる。今はたくさんのそういったサービスがあるが、どれもたぶんの便利なのだろう。

そこでなんとなく静かな音楽を聴きたくて検索していたら、クエンティン・サージャックというポストクラシカル系のアーティストに出会った。彼の Far Islands and Near Places というアルバムに収録された aquarius という冒頭の曲に一瞬で惹かれてしまった。私は自分が好きな音楽に出会った瞬間、毎回毎回、衝撃的な思いを抱く。このときもやはりそうであった。びっくりするのだ。世の中にこんな音楽が存在していることに。私が鍵穴だとしたら、見ず知らずの誰かに、ぴったりのキーを差し込まれた気分。

それから、芋づる式にどんどん出てくる。定額制の音楽サービスはこの芋づる式ができるというのが嬉しい。近いジャンルを散策していると、またそのような驚きに出会うことも多い。好きな音楽というのは、本当に微妙なもので、似たような鍵だからといってぴったり当てはまるわけではないように、鍵山一つでしっくりこないものである。だからこそ、地道にポツポツ見つけるしかない。

そういうことのできる場が、こうやって整備されていく。良い時代だと思う。

しらすピザのこと

釜揚げしらすというのを手に入れた。どうやって食べるのが美味しいのだろうか。シンプルにご飯に乗っけて食べてみた。美味しい。パスタにしても、もちろん美味しい。それで最後に、ピザにしてみることにした。

江ノ島にしらすピザを売りにしている店がなかっただろうか。私の記憶では橋を渡って少し入ったところに、そのようなお店が看板を出していたような気がする。江ノ島といえばしらすだし、そこでピザにされているのだから、間違いないだろう。

さっそくピザ生地を買いに行ったのだが、あいにく薄皮の生地しかおいていない。パリパリの薄皮も美味しいとは思うのだが、気分は完全にふっくらとした耳を有した、あの生地である。まわりを見てみると四種のチーズピザというのが並べられていた。どうやらこれは、ピザ生地にチーズを乗っけただけのシンプルなピザとして売っているらしい。トマトソースが乗っているとしらすには合わないので、その点も確認したが、どうやら大丈夫だ。

チーズピザと、ネギを買う。しらすには醤油とマヨネーズが合う。これは間違いない。チーズが乗った厚めのピザ生地に醤油とマヨネーズを丁寧に塗っていく。塗り終わったらその上にオリーブオイルを少々。そしてネギとしらすを乗っけたら、オーブンでブン!!これでいい。

いい匂いだ。熱々のピザを綺麗な60度に切り分けることができれば、それで完成である。空腹時に、ピザとお好み焼きを切る楽しみは、格別なものがある。早く食べたくても、慎重に、綺麗に。そのあとのテンションに関わるから重要だ。

ピザと一緒にコエドビールも飲んでしまえ。コエドビールとは、埼玉県川越市で作っているビールであり、いくつかのバリエーションがあるのだが、どれも固有の香りを有している。その日の気分で好きな香りを楽しめる。しらすピザには瑠璃を選んだ。味としてはオーソドックスであるけれど、香りは華やか爽やか、口からはすっと鼻へと抜けていく。

ああ、もうすぐ本格的な夏がやってくる。ああ、もうすぐ本格的な夏がやってくる。

モナドと窓

窓から光が差し込む。窓を開ける。すると、鳥の鳴き声とともに外の空気が入り込んでくる。少し寒くなって窓を閉めた。傾いた太陽の光がまっすぐに窓を突き抜けて、やはり私の元へとやってくるのだった。

私たちの魂は神や宇宙を表出するのであり、あらゆる現実存在と同様にあらゆる本質もまた表出するのである。このことは私の諸原理に一致する。なにしろ、自然的には精神はその外部からいかなるものも入らせることはないのであり、私たちの魂があたかもなにか伝達される形象を受け取ったり、扉や窓を有していたりすると考えることは、まさに悪い習慣なのである。(『形而上学叙説』§ 26)

モナドは、それによってなにかが出たり入ったりするような窓を持っていない。(『モナドロジー』§ 7)

モナドには窓がない」という言葉は、その比喩的な豊かさを伴って、多くの人々の間で反復的に使用されてきた言葉である。その意味するところは、こうして引用を少し見てみればわかる通り、能動知性–可能知性理論への反論であり、外部から何かがやってくることの否定である。

ここで、「モナドには窓がない」ということは、はたして「私には窓がない」ということと同じことなのだろうかという疑問が生じる。モナドは私なのだろうか。完全にすべての述語(出来事)がそろっているという点では、すくなくともモナドというカテゴリーに私は入ってくるだろう。この事態をもう少し比喩的にいえば、私の家には生活に必要なすべての家具や食料や日用品が最初から揃っているという状態であり、某宅配サービスは必要ないということである。

ところが、ライプニッツ「窓」の比喩が意味することは、実在的なものの流入の話に限定されていることに注意しなければならない。私たちはあらたな家具も食料も必要としない。それはたしかである。しかし、いつこのストーブに薪をくべるのだろうか。それは寒くなったときに、である。部屋は勝手に寒くなるだろうか。いやそうではない。外が寒くなるから中もまた寒くなるのである。ライプニッツは無理由を認めない。部屋が寒くなるからには何か理由があり、それは外部との関係ということがすでに自らの述語にふくまれているということである。つまり、窓の外すべてが内部化されているということであり、「窓がない」のではなく「窓しかない」とも言える(この場合は実在的な流入ということの比喩ではなく、「見ている」ということの比喩としてではあるが)。

私たちが完足的(十分にすべて揃っている)であるということが、逆に外部への関係を必要としている。これはあくまで観念的な関係であり、何かがでたり入ったりすることとは厳密に区別しなければならないにしても、である。「モナドには窓がない」という存在論的前提から帰結するのは、「モナドには窓しかない」(何度も注意して言うが、この窓の比喩は実在的な何かのやりとりという相互関係ではなく観念的相互関係を表現する)という認識論的要請であろう。私たちの不完全性、質料性、パースペクティブ性は、そのような外部との関係を必要としている(私たちはすべてを自らのうちにみる神ではないのだ)。

モナドには窓がない」ということが、私たちに窓を開けて外の誰か何かとの交渉を要請する。そして、お互いが判明なモナドであるということが、おしゃべりを可能にする。ときに受動的に相手の言葉を受け入れ、ときに能動的に相手に言葉を伝えること、判明なモナド同士の対話は、こうである。

やがて死はモナドの判明さを闇の中へと転落させる。そのとき、もうおしゃべりは成り立つことがない。相手の声は聞こえない。しかし、ある人が残した作品や言葉が私に影響をあたえることがある。これはすでに判明でなくなったモナドにとって一体なんなのだろうか。私の空想なのだろうか。それが空想だとしても、私自身の判明さはすでに死という状態にあるモナドに観念的にであれ結びついているように思われる。意識を持たないモナドが判明だということがあるというのだろうか。

答えがでないことがある。そういうときにこそ、窓を開ければよいのだろう。外に出ればよいのだろう。鳥がなにか教えてくれるかもしれない。