すし天ぷら蕎麦、哲学

日々の雑記。

「本」のこと(2019年1月のこと)

私の父がよく言っていた言葉がある「彷徨う野良猫がいつかエサにありつくが如く」。ブラブラしていると様々な事物に出会う。「犬も歩けば棒にあたる」という諺が、意味の良し悪しの別なく使われるように、出会われた様々な事物は、美味しいエサばかりとは限らない。ときに腹を壊すこともあるだろう。しかし腹を壊しながらでも彷徨わねば生きて行かれぬ。とかくに人の世はままならぬが、ままならぬ世のうちにも、ありがたい世界はあるもので、本や映画や音楽が、あってよかったと心から思う。そんな日々の一端を切り取って貼り付けておこう、いわばスクラップブックである。 P.S. 映画や音楽のことも書こうと思ったが、本のことを書き終えた時点でだいぶ嵩が出てしまったので、またの機会に。

ローレンス・M・プリンチペ『科学革命』菅谷暁・山田俊弘訳, 丸善出版, 2014.

Oxford University Press から出ている Very Short Introduction シリーズからの翻訳書である。プリンチペ教授は、彼の他の著書を見てもわかる通り、科学史のうちでもとりわけ化学史・錬金術史を専門とする人物である。例えば、この本の後にも The Secrets of Alchemy (2013) という本を出しているし、以前には New Narratives in Eighteenth-Century Chemistry (2007); Alchemy Tried in the Fire: Starkey, Boyle, and the Fate of Helmontian Chymistry (2002, W. R. Newman と共著) などの本を公刊している。彼の『科学革命』の内容もまた、この経歴と結びついていることは明らかで、なんといってもその問題意識は、科学革命と錬金術的伝統との関係をいかにみるべきかというところにある。よく言われるように、両者の間には大きな断絶がある。断絶はしかし、連続性を排除しない。どんなに深い谷に見えても、その奥底で、あちらとこちらは結びついている。本書は、この微妙な関係を探る道への「めっちゃ短い入門書」だといえよう。

金森修『科学的思考の考古学』人文書院, 2004.

科学の歴史には、いくつもの深い谷がある。以前の科学的理論と次の時代のそれとの間には、ある種の飛躍があるからこそ、新たなものが明確に生まれてくる。とはいえ、深い谷は無ではない。谷の底には、忘れ去られたたくさんの人々の考えが、今なおひっそりと横たわっている。そのような思想を拾い集めて並べ立てよう、というのがこの本である。科学の正統な歴史のうちからは漏れてしまった思想にどんな意味があるというのか、人はそう問うかもしれない。「考古学(アルケオロジー)」が教えてくれるのは、そのような正統な歴史がなぜ「正統」なのかということである。数々の思想が忘れ去られたのは、全然ダメだったからではなく、ちょっとした不完全さ、あるいは歴史的事実ゆえにかもしれない。われわれが立つこの地平を相対化することは、われわれがどのように進むべきなのかを考えるために、欠かすことができない作業だろう。われわれは、時代を動かすための歯車にすぎないのではなく、それぞれ考え行動するひとりの主体なのだから。

橋本毅彦『「ものづくり」の科学史:世界を変えた《標準革命》』講談社学術文庫, 2013.

歴史の偶然的な事実が、現在のあたりまえの景色を作り上げることがある。ある種の「標準」もまたそのような景色のひとつである。なにかが標準化されるということ、例えばネジやコンテナの規格が定められるということは、さまざまな便利さを生み出してくれる。ネジが互換可能なおかげで修理が簡単だし、コンテナの大きさが統一されているおかげで海も陸も一貫して荷物を輸送することができる。しかし、そのような便利な標準ばかりではない。例えば、キーボードのQWERTY配列は、だれかが標準化したわけではないが、すでに普及しているという事実ゆえに、標準的なものとしてまかり通っている。このような歴史の事実に縛られた景色は、それが「あたりまえ」である限り、変えることができない。一度立ち止まり振り返ること、それは、前進するための必要不可欠な条件なのである。

松田純安楽死尊厳死の現在』中公新書, 2018.

安楽死できるなら、すぐにでもしたい」。ものをコピーするよりもずっと簡単なのが、言葉をコピーすることである。「安楽死」という甘美な語は、われわれの口から口へ、指から指へ、瞬く間に伝染してゆく。ところで、その甘い言葉とは一体なにものなのだろうか。ただ感染に任せておいて良いものなのだろうか。そのような疑問に、法制度、歴史、そして思想、という面から迫ったのが本書である。安楽死尊厳死といったものがもてはやされる裏側には、人々のある種の観念がある、「自律しなさい」。問わねばならない、自律した生以外に、われわれの生はあり得ないのだろうか、と。本書は、最終章においてこの問いへと私たちを導き終わる。それゆえに、現在なされる議論の土台となるべき知識を与えてくれる本であり、死が人間の必然である限り、すべての人が読むべき本だといってよいと、私は思う。

テオドール・フィーヴェク『トピクと法律学:法学的基礎研究への一試論』植松秀雄訳, 木鐸社, 1980.

トピクとは、問題を考えるさいの術のひとつである。演繹的で体系的な思惟の方法からは区別されたその方法を、正確に捉えようとする試みは古代から存在していた。問題があるからこそ、推論やその連結としての体系が打ち立てられるのであり、逆ではない。「問題をめぐって推論は回転する」。法律学もまた、この修辞学的方法論によって、導かれた時期があった。その代表としてあげられるのがローマ市民法である。このような思惟を基礎においてなされる法律学は、その根本的な性格を、われわれの知るそれから引き離す。というのも、具体的な生きた事例としての法に関わるためには、法律家が全人格をかけてそれに参与しなければならないし、その点において、「法はもっぱら受忍すべきものとして理解するのではなく、みずから後々まで責任を負ってともにつくりあげるべきものとして理解する」(p. 87)必要があるものだからだ。つまり、それは単なる知識ではなく、道徳的な知識、義務を伴った知識として提示されるのである。法に従うことの受動的なイメージに対して、内在的に動機づけられるものとしての法のイメージは、時代を超えてわれわれにある種のインスピレーションを与えてくれる。

長尾宗典『〈憧憬〉の明治精神史:高山樗牛・姉崎嘲風の時代』ぺりかん社, 2016.

(工事中)

絓秀実『革命的なあまりに革命的な:「1968年の革命」史論 増補版』ちくま学芸文庫, 2018.

(工事中)

2018年へ感謝を込めて

一年を振り返るということ

 たしか、昨年末にも一年間を振り返ってブログを書いたような記憶がある。ひと月毎に書いていって半年くらいまできたところで、「これは大変だ」と気がついた。同じ過ちを二度と繰り返さない。今年はもっと簡潔に思い出したことをサラッと並べておくだけにしたい。とはいえ、瞬く間にすぎてゆく年月を数えることに精一杯で、その中身をすっかり忘れてしまうなんてことにならないように、たまには記録を残しておくのも大切なことであろう。

修士(文学)になる

 今年3月に修士号を取得した。東京大学では、哲学研究室に論文を提出しても、もらえるのは文学の修士号である。修士(哲学)よりも修士(文学)のほうが、じっさいは哲学だけど文学も知ってますよという感がでてよいと、勝手に思っている。
 研究室では伝統ある授与式が行われたのだが、私はてっきり大した行事ではないと思い込んで出席しなかった。あとで研究室にいったら、だいぶ大胆なことをするねと先輩たちに言われ、先生にも「あれは出なきゃだめでしょー」とたしなめられた。私としては、そんな大それた気持ちで行かなかったわけではないので、申し訳ないことをしてしまったと反省している。さぼるときは、さぼられるものが何であるのかということをしっかりと認識したうえで、覚悟を決めてさぼらなければならない。このことを修士課程のさいごに学んだのであった。

勉強の幅を広げてみる

 いままでよりももう少し勉強の幅を広げてみようというのが、今年のちょっとした目標であった。研究室の先輩が主催する読書会にいくつか参加させてもらい、普段は読まないような本を読むことができたのは大変によい経験であった。ダメットを読んだり、『カントの自由論』を読んだり、ハイデガーベルクソンとの時間論に関する研究書を読んだり、とても楽しい読書会であった。
 同期の友人が誕生日に高木貞治『解析概論』を贈ってくれた。一般的にライプニッツといえば、哲学でというよりも、微分積分の祖として有名であるように思う。私は彼の哲学に関する研究者であるけれど、とはいえ、その同じ人が考えたことなのだから多少は知っていた方がいいはずだろう。いい機会だったので、勉強会に参加して、友人たちに助けられつつ進めている。普段とはちがう頭の使い方で楽しいものである。
 後期には、生命倫理に関わるような演習に参加させてもらった。もともとライプニッツの生物学的な側面を研究しているので、生命に関わる議論は、専門の一部でもある。とはいえ、倫理という方向にずらして、さらに現代の医療などの話なども含めて考えるというのは、初めての経験であった。ゲノム編集や遺伝子組み換えの問題、安楽死尊厳死や臓器移植にまつわる権力の問題、そして技術とはいったい何であるのか、これらのことを短い期間だったが勉強することができた。今後もフォローしてゆきたいと思う。

人生初めての公刊論文

 なにごとにも「初めて」がある。些細なことならすぐに忘れてしまうけれど、初めて好きな人に告白した日のことや、初めてライブでギターを弾いた日のことや、初めてお箏に触れた日のことや、初めて学会発表した日のことなどは、よく覚えているものである。そういった「初めての日シリーズ」のなかに、初めて論文が公刊された日のことも入ってきそうなものであるが、なかなか難しい。というのも、特定のある1日にパッと論文が公刊されたわけではないし、なんだかノッペリとした月日の流れの中でマッタリと世の中に生じてきたものが、初めての論文だったからである。それでも「初めて」は「初めて」なのだから、やっぱり私の「初」公刊論文がこの世のなかに生まれ出たのであった。人類がどのようにそれを評価するかはわからないが、少なくとも私にとっては、研究者の第一歩としてとても大事な論文であったように思う。

2018年の終わりに

 年上の人々に「平成生まれなんですよ」というと、いつだって色々なことを言われてきた。そんな「平成」ももうすぐ終わる。次の元号が何になるかは知らないけれど、次の時代に生まれた人々も「〇〇生まれなんですよ」といったら、平成生まれや昭和生まれにいろいろ言われるのだろう。まあどうでもいいことである。
 今年も相変わらず何度も二日酔いになったし、笑っちゃいけないところで笑ってしまったり、大人の階段を登っては落ちを繰り返している。だんだんと将来を見ようと目を凝らす自分がいることに気づいた。とはいえ、遠く向こうは霞に覆われ、なにが待ち受けているのやら。恐れることはない、根拠のない確信を胸に前に進むのだと、自らを奮い立たせる日々。そんな日々に疲れることがあっても、幸いなことに、私はこの世界に大好きなものがいくつもある。人間、音楽、文学、感動的な何かに出会った日には、この世界への愛情を思い出す。愛こそが力だ。私の不安も疲れも、愛を止めはしない、愛に関係すらできない。
 そんなわけで、もう数時間でやってくるであろう2019年を迎えるべく、お茶を入れ、そして線香を焚く。来年よ、よろしく頼むぞ。

日本ライプニッツ協会第10回大会と『ライプニッツ研究 Studia Leibnitiana Japonica』第5号との紹介

日本ライプニッツ協会第10回大会

2018年11月10日から11日にかけて、石川県金沢市にある石川四高記念文化交流館にて日本ライプニッツ協会第10回大会が開催されました。ちょうど紅葉が美しい季節であり、会場前にある公園でも木々がそれぞれの色に染まっていて、煉瓦造りの会場建物の落ち着いた雰囲気と心地よく調和していたのが印象的でした。色とりどりの木々に負けず劣らず、大会では様々な分野にわたる研究発表が繰り広げられました。数学論から始まり、西田幾多郎との関係、君主教育、医学、そして時間論…、これらが分会という仕方で区分されることなく、ひとつの大会で議論しあえるというのは大変貴重なことだと思われます。以下、個人的な感想も大いに含めつつ、全5つの研究発表をご紹介します。

稲岡大志(神戸大学)「厳密であるとはどういうことか?:『算術的求積』の評価をめぐる論争」

初日最初の研究発表は、稲岡氏による初期ライプニッツの数学論に関するものでした。発表が始まってまず驚いたのは、発表原稿を配りつつスライドをメインにして説明するというスタイルです。哲学史研究においては、対象となる哲学者のテクストをいかに解釈するかということが大事になってくるので、そのテクストと細かな解釈を示すための原稿が欠かせません。それと同時に、ライプニッツの数学的な議論を追うだけの発表時間が確保されていないなかで、できるだけ簡潔にポイントを伝えるということを、スライドが補助しているかたちでした。発表の内容は、『系として表なしの三角法が与えられる円・楕円・双曲線の算術的求積について De quadratura arithmetica circuli ellipseos et hyperbolae corollarium est trigonometria sine tabulis』(1675–76)に関して、Knobloch と Blasjo という研究者たちの論争を整理し、両者に対して稲岡氏は、ライプニッツが用いた図形の解釈を通して新たな解釈を示しました。重要なのは、同一の命題の証明のなかで、ライプニッツが使う図形の機能を二つに区別することができるということです。すなわち、「(妥当な)推論の媒体としての使用」と、「代数的に表現される証明を視覚化する媒体としての使用」とです。 これらの混用は、20世紀的な厳密さからすると、批判されるべきものかもしれませんが、ライプニッツ自身の主張を正確に捉えるためには、このような図形の使用を正確に捉えることが重要なのだと稲岡氏は締めくくりました。

大西光弘(立命館大学)「下村寅太郎によるライプニッツ理解と西田理解」

西田幾多郎下村寅太郎に対して「いま自分に一番近いと思う哲学者はヘーゲルよりもライプニッツだ」と語ったという逸話から、大西氏の発表は始まります。この発表は、下村が1966年にハノーファーの国際ライプニッツ会議で西田哲学からのライプニッツ哲学批判を発表した際の原稿をまず翻訳、紹介して、その上でそのライプニッツ批判がどのようなものであったかを明らかにするものでした。西田の批判で個人的に興味深かったのは、ライプニッツモナドジーは「唯神論的」であって、物質的な世界を見落としていると西田が評している点です。つまり、ライプニッツモナドジーには「死」がないというのです。西田によるライプニッツ理解は、モナドジーの正確な理解とは言い難いかもしれませんが、「生まれて死ぬもの」としての存在の次元については真正面から検討しなければいけないだろうと、私自身も感じています。

山崎明日香(日本大学商学部)「ライプニッツの君主教育論における演劇教育の導入 — Lettre sur l’Éducation d’un Prince を手がかりに」

大変残念なことに、山崎氏の発表の際に事務作業で私は会場を離れており、内容を聞くことができませんでした。いただいたレジュメを拝見する限り、スピノザモンテスキューパスカルペリエ、コメニウス、そしてライプニッツという人々が登場し、彼らがそれぞれどのような君主教育観を有していたのかが語られたようです。最近完結したライプニッツ著作集第二期でも「王子の教育についての書簡」が翻訳されるなど、ライプニッツの新たな側面が次々と明らかになってきています。重要なことは、一見バラバラにも感じられるそれらの側面が、どれもひとりの人物の一側面なのだということであり、ライプニッツ自身のなかでは全てが自身の哲学のなかで確固とした位置を有していたのだということでしょう。そういう意味で、新たな側面の研究は従来の研究から切り離されることはなく、むしろ相互的に明らかになっていくことになるのだと、私は考えます。そういう意味で、山崎氏のこの発表もまた、われわれが21世紀的なライプニッツ観を形成してゆくうえで非常に重要なものであったように思います。

寺嶋雅彦「ライプニッツにおける医学の構成要素とその学問的位置付け」

さて、大会二日目に入り、寺嶋氏の医学に関する研究発表から始まります。ライプニッツ医学論に関する研究は、20世紀後半から盛り上がりを見せ、今まさに世界的に研究が進んでいる分野でもあります。寺嶋氏はつい最近までフランスに留学していまして、ジャスティン・スミス氏の下で研究に励んでいたそうです。本発表は、まだほとんど日本では紹介されていない(あるいは世界でもあまりないかもしれません)ライプニッツによる医学の学問的位置付けの紹介でした。ライプニッツが賛同していたとされるホフマン、そして論争相手でもあったシュタール、カントとの関係で言及されることも多いブールハーフェらの医学の位置付けを示し、それらに対してライプニッツがどのような考えをもっていたのかが問われます。私自身の考えですが、医学のような経験的な科学をライプニッツが重視していたことは、彼が機械論者であったことと合わせて非常に重要なことだといえます。機械論は現象がどのように生じてくるかをその部分に基づいて明らかにするものですが、経験的な科学は、そのような機構が明らかでない微細なものに対する知解性を保証する上で重要になってくるのです。寺嶋氏は、これから博士論文を書かれるそうで、その序章にも当たる部分だとおっしゃっていました。今からその完成が楽しみでなりません。

松田毅「ライプニッツの時間論 — 「現実的時間の関係主義」」

本大会最後の研究発表は、松田氏によるライプニッツの時間論です。従来、ニュートンの「絶対時間」に対して「関係主義」的に捉えられてきたライプニッツの時間論を、時間の各瞬間における「質的な差異」という観点から「現実的時間の関係主義」として捉え返すというのが、この発表の趣旨でした。ライプニッツがホラチウスに登場するキタラー弾きを引き合いに出して「いつも同じ弦を弾く[誤るoberro]ことは、神的調和に一致しない」と述べるとき、まさに時間的な不可識別者同一の原理が働いているのだと、松田氏は考えます。そのような質的に異なる個々の瞬間は、現実的な個体性を有しており、その瞬間に基礎付けられる持続的な時間は、モナドが現象を基礎付けることと類比的に、実在的なものであると考えられます。こうして、ライプニッツの時間論は単に関係のみに解消されてしまうものではなくて、それ自体で何らかの実在性を主張することができるような時間なのだということになります。松田氏はこれまでもライプニッツに関して、進化論や、テセウスの船との関連で同一性、さらに『ライプニッツ研究』最新刊では経済哲学についても研究をされていて、これらが時間論も合わせてどのように結びついていくのか非常に興味深く思われます。

ライプニッツ研究 Studia Leibnitiana Japonica』第5号

隔年で刊行されている『ライプニッツ研究』(日本ライプニッツ協会編)も第5号となりました。大会会場で受け取ってすぐにわかったのですが、今号はいつもよりもだいぶ厚いものとなっています。海外からの特別寄稿が三本、そして研究論文が七本という、盛りだくさんぶり。この中から、私(三浦)と増山氏の論文が「日本ライプニッツ協会研究奨励賞」第七回受賞となりました。これまでの受賞は、池田真治「想像と秩序 — ライプニッツの想像力の理論に向けての試論」(『ライプニッツ研究』創刊号)と稲岡大志「実態の位置と空間の構成 — ライプニッツ空間論の展開の解明に向けて」(『ライプニッツ研究』第3号)との二本であり、今回で計四本の論文が研究奨励賞を受賞したこととなります。以下、今号の目次をあげておきます、ご興味があれば是非読んでみてください。

特別寄稿
- ヴィンチェンツォ・デ・リージ(稲岡大志訳)「位置解析、すなわち数学の基礎と空間の幾何学
- ノーラ・ゲーデケ(酒井潔訳)「理論と実践:歴史家ライプニッツの工房における史料編纂作業」
- リタ・ヴィドマイアー(長綱啓典訳)「ライプニッツコペルニクス的転回:ハインリッヒ。シェーパース『ライプニッツ — 一つの成熟した形而上学へ至る諸々の道』(ベルリン, アカデミー・フェアラーク, 2014年)書評

研究論文
- 池田真治「虚構を通じて実在へ — 無限小の本性をめぐるライプニッツの数理哲学」
- 三浦隼暉「後期ライプニッツ有機体論 — 機械論との連続性および不連続性の観点から」
- 松田毅「ライプニッツの経済哲学試論 — 自然と規範」
- 根無一信「ライプニッツ自由論と占星術 — 「星々は傾かせるが強いない」の思想をめぐって」
- 町田一「最善世界の神学 — アベラルドゥス-ライプニッツ・プログラム」
- 手代木陽「ヴォルフにおける「可能性の補完」としての現実存在」
- 増山浩人「カントのライプニッツ哲学受容の源泉としてのバウムガルテンの『形而上学』 — 前批判期カントの予定調和説批判」

なお、『ライプニッツ研究』はライプニッツ協会事務局に直接連絡するか、いくつかの大きな書店で、購入することができるようです。詳しくは、日本ライプニッツ協会のHP(https://www-cc.gakushuin.ac.jp/~19950491/leibniz/index.html)をご確認ください。 f:id:philoglasses:20181115121026j:plain

目覚まし時計を使って朝起きる方法について

朝。

寝坊をするとき、私はたいてい夢をみている。「あれ、夢をみてる場合だっただろうか」と夢中で自問し、重い瞼をこじ開けて時計をみると、予定時刻はとうに過ぎ去ってしまっているのだ。今日もそんな仕方で1日が始まった。

友人たちと本郷でやっている勉強会は10時からの予定であった。家から大学までの道のりをゆくのにかかる時間は、1時間と30分。つまり、8時30分に家を出ればよいのであり、8時に起きれば十分に間に合う。大変に複雑なこの逆算を前日夜に為し終えていた私は、しっかり目覚まし時計をセットして布団に潜り込んだ。

なぜこの世の中に目覚まし時計が存在するのかを少し考えてみればすぐにわかることだが、人間は寝坊する生き物である。マルクス・アウレリウスが『自省録』の中で、いつまで寝ているのかお前は寝るために生まれてきたのかと、寝坊に厳しいことを述べていた。ここからわかることは、寝坊は、とくに現代人特有の悩みというわけではなく、古来より人々が悩み、そして(その背徳感も含めて)楽しんできたものなのである。

目覚まし時計も、ときに寝坊する。突然の故障もあるだろうし、電池の不足もある。「寝ている間に電池が切れたらどうしよう」というのは、誰もが抱いたことのある心配だろう。それでも、これは経験から明らかなことであるが、たいてい、時計は朝まで動いているし、私はなかなか起きられない。目覚まし時計に協力を仰ぐことは必至である。

大きなアラーム音で8時を知らせる目覚まし時計。CASIO の電波式時計は、たぶん、非常に正確に8時を教えてくれた。そのままにすると、ご近所さんからいつまで寝ているのかと思われる恐れがあるため、アラームを止める。どうやらここが重要である。「アラームを止める」のは、目が覚めて合図がもう必要がないからではなく、あくまで、世の中に対する体面を保つためなのである。それゆえ、安心の布団の中に再び帰っていくことは、アラームを止めることと、何ら衝突しない。

われわれにとって本当にアラームを止めるべきは、目が覚めて合図の必要がなくなったときである。しかし、そのような伸び伸びとした起床を認めないのが体面というものだ。この体面のせいでアラームは鳴り止み、燻った起床の火種は布団の闇の中に消え去ってしまう。

人間と寝坊の関係は切り離すことができない。それでも、寝坊を最低限に抑えるための手立てが何もないわけではない。人間は、日時計を超えて、朝まできっちり時間を示してくれる動力付きの時計を発明したし、けたたましいアラームをそれらに備え付けさえしたのである。あとは、私自身が少しだけの体面を放り捨て、目が完全に覚めるまでアラームを止めなければよい。これできっと起きられるはずである。

ところがまたしばらく朝の用事がないのである。だから寝坊する気がする。

 

手をつなぐということ

小学生の頃、下校途中に追いかけっこをしていて転んだことがある。季節も思い出せないくらい古い記憶だけれども、かすかな記憶をたどると、坂道で転んだ私は、腕を変な方向に曲げてしまいその後数週間のギプス生活を送ったのであった。

成長して転ぶことも少なくなった。転ぶ要因は様々あるが、そのほとんどの要因を避けられるようになったのである。先に挙げた思い出の転倒は、足をもつれさせて転ぶというものであったと思う。最近はそもそも走ることが少なくなったし、ましてや坂道を駆け足でくだるなどという危険な行為をあえてしようとは思わなくなった。他にも、歩行時の足の上下が不十分であることによって何かにつまづいて転ぶという場合や、平衡感覚を失って転ぶ場合などを考えることができる。そういった危険に対しても、成長した私は、ある程度対応できるようになったのだろう。

とはいえ、やはりたまには転ぶのである。私たちはある程度の身長を有しているので、舗装されていない道をみても、その凹凸が些細なもののように感じたりする。その油断が転倒へと誘うのである。蟻の眼を備えろ!次の瞬間には天地がひっくり返る!

犬と生活していたことがある。小さい頃から犬が家にいた。一人っ子だった私にとって、彼は兄弟であり友達であり犬であった。犬というのは四足歩行をする生き物であることはよく知られている。そして、人間が二足歩行をすることで大変な発展を遂げ得たことも、またやはりよく知られている。ところで、犬はとても足が速い。私はよくフリスビーで一緒に遊んでいたのだが、すごい速さで駆けていって高く飛び上がりそして帰ってくる。ただ、記憶のどこを探っても犬が転んだ姿をみたことがなかった。それは、きっとあの四つ足のおかげだろう。どんなによろけても絶対に倒れない四つ足のロボットの動画をみたことがある。二つ足に比べて、四つ足はずっと転びづらいのだ。

彼女と暗い山道を歩いていたときのことである。日も落ち周りに人影もなく、手元の懐中電灯だけが頼りであった。地表では、沈んでは飛び跳ねる木の根が、私たちを転ばせようと、至る所にうようよと潜んでいる。この状況において、転倒は避けられないように思われた。安全なところへ戻りたいと焦る気持ちで早まった一歩を、木の根はすかさず捕らえてきた。それでも、転ぶ運命に必死にあらがい振り回した左腕を、彼女がしっかりと捕まえてくれたおかげで、私はなんとか耐えることができた。それだから、その後、手をつないで山をおりた。そのとき、私たちは転倒の恐怖に打ち勝ったのである。

あのとき、私たちは四本足の何かだった。「支え合って生きる」という、思弁的で抽象的で観念的な言葉を聞いたことがあるだろう。手をつなぐということは、それとはだいぶ異なる。四本足が本来的であるというような、全体性を前提とした相補性でもない。手をつなぐことで、私たちは、転倒の不安にそれぞれで打ち勝つという出来事を、同時に経験したのである。その経験は、全能性のように崇高なものではないけれど、人間身体にとって本性的な転倒性を超えうるという、予感や期待をもたらした。

キャンプファイアーを囲んで手をつなぐ。それで私たちはみんな少しだけ完全だったのだ。

 

「ライプニッツ『形而上学叙説』研究会」の成果と訳

はじめに

2017年1月頃から、中期ライプニッツの主要な著作として有名な『形而上学叙説』の研究会をオンライン(現在は google ハングアウト)で行っている。基本的には、ライプニッツを専門としない人や、さらには哲学を専門としない人に向けた会として行っているが、議論はかなり詳細な部分にまで及びライプニッツを研究している私自身にとっても有意義なものとなっている。

形而上学叙説』は、1685年の暮れ頃から翌年初めの短い期間に書かれたテクストである。その内容は、彼の後期形而上学すなわちモナドロジーとは異なっている。ライプニッツ研究の大家として知られる Fichant 氏の研究にもあるように、中期-後期形而上学の連続性は、『叙説』の直後に交わされた「ライプニッツ-アルノー往復書簡」において見出すことができる。ところが、『叙説』それ自体では、モナドロジー的実体論とは一線を画すような完足個体概念による実体論が展開されているのである。ただし、この実体論の移行の間に完全な断絶が存していると見るかどうかは議論がわかれるところであろう。その両者の距離を見定めるということこそ、結局のところ、彼のモナドロジーの姿を浮き彫りにするためには必要不可欠な作業なのである。部分が全体を表現しているということがモナドロジーのひとつの要であったように、彼の哲学的生涯における部分もまた彼の哲学全体を映し出しているといえよう。

テクスト

『叙説』原文の主要な版と邦訳及び注釈書を以下にまとめておく。

Briefwechsel zwischen Leibniz, Arnauld und dem Landgrafen Ernst von Hessen-Rheinfels, ed. C. L. GROTEFEND, Hannover, 1846.
『叙説』はライプニッツの生前には結局未発表のままであった。19世紀の中頃にようやくグルーテフェントによって公刊されることになるが、当時はあまり注目されることはなかったらしい。たしかに、有名な「モナド」という言葉もここには登場しないのだから、当然といえば当然なのかもしれない。この後、1857年に公刊されたフーシェ=ドゥ=カレーユ版というのも存在している。

Die philosophischen Schriften von G. W. Leibniz, hrsg. von C. I. Gerhardt, Weidman, 1875–1890 (Nachdr., Olms, 1978), Bd. IV, pp. 427–463.
いわゆるゲルハルト版と呼ばれるものであり、GP や G と略されることが多い。アカデミー版が出版される以前はこちらが主に参照されていた。現在でもアカデミー版未公刊のテクストに関してはこちらをよく参照する。

Sämtliche Schriften und Briefe, Akademie Verlag, 1923–, Sechste Reihe, Vierter Band, pp. 1529–1588.
いわゆるアカデミー版と呼ばれるものであり、Ak や A と略されることが多い。現在のライプニッツ研究ではこの版が基本となっている。しかしながら、未公刊のテクストも多く、後期哲学関連のテクストのほとんどがまだ公刊されていない。ただし有名な後期著作である『人間知性新論』 だけは、諸事情(いろいろあるらしい)により、すでに公刊されている。『叙説』に関しては、ゲルハルト版がライプニッツも目を通したとされる写本をもとにしている一方で、アカデミー版はライプニッツ自身の手稿をもとにしている。アカデミー版にはゲルハルト版やほかの写本などの異同が示されており、原文を参照したいときにはまずこの版を見るべきであろう。

Discours de métaphysique suivi de Monadologie et autres textes, éd. M. Fichant, Gallimard, 2004.
研究者はアカデミー版を見るべきかもしれないが、異同まで気にせず読むのであれば、この Fichant 版が良いと思う。ありがたいことに『モナドロジー』や他の関係テクストも一緒に収録されており、ライプニッツの基本的なテクストをおさえている。さらに、この本の最初に附された長い(130頁くらいある)イントロダクションは、中期-後期形而上学の連続関係を論ずるさいによく引用される箇所であり、重要な文献である。注も充実しており、研究会ではこの本の注にはだいぶお世話になっている。安いということもあり、一冊持っておくのにはおすすめ。

Discours de métaphysique, correspondance, éd. C. Leduc, Vrin, 2016.
今のところ(2018年4月現在)最新の版だと思う。この版のありがたいところは、左右余白にアカデミー版のページ数が附されているという点である。最近の論文での引用を手軽にたしかめることができる。また、「ライプニッツ-アルノー往復書簡」も収録されている点は重要である。この書簡は『叙説』をめぐるさまざまな問題に関するものであり、両テクストを合わせて読むことで『叙説』の理解が深まることは確かであろう。あと、これは本質的なことではないかもしれないが、紙質が(多少だけど)良いので破ける心配がないのも嬉しい。

形而上学叙説』, 河野与一訳, 岩波文庫, 1950.
日本におけるライプニッツ研究の歴史は古いが、その中でも彼の翻訳業は極めて重要な意味を持っているだろう。岩波文庫に入ったのは1950年であるが、1925年に哲学古典叢書として岩波書店から出版されていたものを改訳したのが、この訳である。解説を見ると、大正12年(1923)の夏から翻訳に着手したとある。そのきっかけが、安倍能成氏と西田幾多郎氏にあると言うのだからすごい。哲学分野においては日本最古の学術雑誌『哲学雑誌』(『哲学会雑誌』から改名)に、1916年ごろから続けてライプニッツの論考が発表されており、桑木厳翼氏や井上哲次郎氏、田辺元氏、西田幾多郎氏など当時の主要な顔ぶれがライプニッツに注目していたことがわかる。そんな空気の中でこの邦訳が出たのはある意味必然であったかもしれないが、それにしても、今読んでも勉強になる訳である。ただし、現在はちょっと手に入りづらいのと、旧字体で読みづらいなどの理由で、あまりおすすめはしていない。

 モナドロジー・形而上学叙説』, 清水富雄・竹田篤司・飯塚勝久訳, 中公クラシックス, 2005.
『叙説』の部分は清水・飯塚訳である。この翻訳は、1969年の『世界の名著 25』およびそのソフトカバー版『世界の名著 30』(1980)をそのまま持ってきたものである。実は『世界の名著』ではスピノザと一緒に収録されており、ライプニッツ著作を『エチカ』とともに読める優れもの(?)であった。それが中公クラシックス版ではライプニッツ著作だけになってしまい、ちょっと残念ではある。全体的に(特に『モナドロジー』は)すこし訳が緩めではあるが、手に入りやすさと、『モナドロジー』も一緒に収録している点で、彼の著作をとりあえず何か読んでみたいという方にはおすすめの一冊である。

ライプニッツ著作集』全10巻, 下村寅太郎 山本信 中村幸四郎 原亨吾監修, 工作舎, 1988–1999.
第8巻に『叙説』が収録されている。西谷裕作氏の翻訳である。訳注が充実しており、ライプニッツが濁して「『事物が善いのはいかなる善の法則によるのでもなく、まったく神の意志によってである』と言う人」といっているところにも、注で「デカルトを念頭においている」と示してくれている。『ライプニッツ著作集』は現在第2期の刊行が進んでおり2018年5月には第2期の最終巻が出る予定らしい。世界的に見てもこれだけライプニッツの翻訳が出版されているのは珍しいことであり、工作舎さんには感謝せずにはいられない。少しお値段が張るので個人で所有するにはつらいかもしれないが、第8巻と第9巻がライプニッツの前期・後期哲学著作の巻となっており、興味がある方は持っていて損はないだろう。

形而上学叙説・ライプニッツ-アルノー往復書簡』, 橋本由美子監訳 秋保亘 大矢宗太朗訳, 平凡社ライブラリー, 2013.
個人的なことであるが、私に哲学を教えてくれた橋本由美子先生が監訳したものである。そのような個人的な思い入れもあるが、日本語として優れているとの評価を人々から聞くので、客観的にみても良い翻訳なのだろう。さらに、この訳書の良さとして強調したいのは、『叙説』と「ライプニッツ-アルノー往復書簡」の対応関係を明確に示している点である。『叙説』の本文中に書簡の対応頁数を、書簡の本文中に『叙説』の対応節番号を挿入することによって相互の連関が示され、どちらの著作もこれまでとは違った様相を呈している。手に入りやすさ、値段、そして訳の親切さなど、どの点をとっても私はこの翻訳を人々におすすめしたい。

P. Burgelin, Commentaire du Discours de Métaphysique de Leibniz, PUF, 1959. 
『叙説』の注釈書である。節ごとに長いコメントをつけているものというのは、実はけっこう珍しく、研究会ではかなり重宝している。ただし引用の仕方が雑なので原典を参照しようとするとなかなか難しかったりと、難ありな研究書ではある。とはいえ、『叙説』という濃縮されたテクストを読む上で、まず解凍作業が必要であり、そのさいには丁寧に他のテクストに関連付けながら解説してくれているこのような注釈書は、大変参考になるのである。『叙説』を節ごとに解説してくれている研究書が他にあれば、ぜひ教えていただきたい。情報求む。

対訳資料と解説

研究会では少しずつ対訳を作成しており、ここではそれを順次公開していく(リンクを押すとDropboxのPDFに飛びます)。

  1. 基本的にはAkademie版を底本としている。
  2. 段落に関してはアンリ・レスティエンヌ版および橋本訳を参考にしつつ、適宜変更している。
  3. 原文中の >< は版によって異なる語句が挿入されている箇所を示す。
  4. 原文中の[]は版によって異なる語句が使用されている箇所を示す。
  5. 原文中および本文中での異同を示す際に使用する記号は次の通り。Gerhardt版(l2)、フィシャン版(f)、自筆による草稿(L2)、秘書による写本(l1, l3
  6. 注釈は現行の諸々の版を参照している。各注頭に参照した版を記号で示す。アカデミー版(A)、Fichant版(F)、工作舎著作集(O)、橋本訳(H)。また訳者(M)。その他は適宜指示する。 
  7. 注での引用は既訳が存在するものはそれらを参照している。

第1節 神の完全性について、また神がこの上なく望ましい仕方で全てを為すこと。

第2節 神の作品において善性は存しないとか、善や美の諸規則は恣意的であると[L2:あるいは人間たちの想像力のうちにしか存していないと]主張する人々に対して。

第3節 神はより善く為すことができたはずであると考えている人々に対して。

第4節 神への愛は神が為すことに関して全面的な満足と承服を要求するということ。だからといって静寂主義に陥ることはない。

第5節 神の行いの完全性の諸規則とはいかなるものであるか。そして、諸々の手段の単純さは諸々の結果の豊かさと均衡しているということ。

第6節 神は秩序から外れては何事も為さず、また規則に従わない出来事をでっち上げることもありえない。

第7節 奇蹟は下位の準則に反していても、一般的秩序には合致しているということ。そして、一般的意志と特殊的意志によって神は望み、容認するということについて。

第8節 神の働きと被造物の働きを区別するために個別的実体の概念は何から構成されるのかを説明する。

 

読書会考 1/5「読書会を考えることについて 」

さいきん読書会に関する話題をよく目にする。それらの議論に一石を投じようなどという気持ちは毛頭ないのだが、私も読書会にお世話になっている一人の人間として少し考えてみようという気になった。 議論へコミットする気がなくても、思惟はつねに状況から影響を受けるのだ。そういう意味ではさいきんの話題と全く無縁ではないとも言える。

題名にも「1/5」と書いたように、私はこの記事を数回にわけて投稿しようと考えている。理由は単純に一度にいろいろ考えるのが億劫だからにすぎない。あえて次のようにこじつけてもよい。読書会とはある期間継続して書に向かうものであるがゆえに、読書会について考えることもまた継続的であるべきだ。

いろいろ考えたい、とはいえ話題を限定しておくことは必要だろう。読書会概念の外延は非常に広い。詩、小説、専門書、教科書…読めとし読めるあらゆる対象が読書会では扱われている。さらに、おなじ本を扱っている読書会があったとしても、その会が何を目的とするのかによって全く違った雰囲気の会となることは容易に想像がつく。私は哲学の大学院生だということもあり、非常に限られた読書会についてしか実際の経験を持ち合わせていない。それゆえ、個々の読書会についてあれこれと考えることは断念しなければならない。そのようなことは、実際にさまざまな読書会に参加して体験しなければ書くべきではないし、そもそも書けない。このことからもわかるように、私が書くことのできる話題は限られている。

まず読書会一般について書くことは可能であろう。例えば読書会は単なる読書とは異なるということは、あらゆる読書会に共通して言うことができるだろう。それゆえ、読書会と読書がどのように異なるのかという問題は、個々の場面から切り離して考えることができる。

そして、もう一つだけ私に許されているのは、哲学書および哲学研究書の読書会について書くことであろう。唯一このような類の読書会は主催したり参加したりの経験がある。この乏しい経験から何事かを述べることを許していただけるならば、一人で哲学をすることと複数人でそれをすることの違いや、Skypeで行う読書会とおなじ空間に集まって読書会をすることの違いなど、より具体的な話題を提供することができるだろう。

五回に分けておいてよかった。もうお昼休みがおしまいだ。第一回は話題を限定するだけになってしまった。とりあえず、具体的な話から入った方がいいだろうから、次回はSkype読書会の意義と困難について簡単に書くことにしようかと思っている。そんな奇特な人がいるかどうかわからないが、気長に待っていてほしい。