わたくしごと註解

正しく生きるよりも、ただ善く生きるために

【読書メモ】村上恭通(編)『モノと技術の古代史 金属編』吉川弘文館, 2017

津野仁・内山敏行「武器・防具・馬具」

戦闘のなかで使われる道具にどのように金属がもたらされたかが仔細に示されている。地方に対して中央が金銅製品を配布することで支配・被支配関係を構築していたなど、興味深く思う。

田中謙「木工具」

ヤリガンナは、弥生時代後期あたりから、それまで直線的であった刃先の部分に反りが生じ、その程度や形態に多様性が出てくるという話を読んだ。道具そのものの、機能分化、機能強化、機能創造といった側面を考えると面白いし、分化した機能をまとめ上げる職人の重要性も気になる。

ライプニッツとシュタールの論争を思い出させる。シュタールは、人間身体をある種の「仕事場officina」として理解していて、そこでは職人(つまり魂)が諸々の道具を特定の目的にまとめ上げて使用することとなる。ライプニッツは、そのような職人を想定しない。いわば道具がそれ自体でまとめ上がる。

魚津知克「鉄製農具」

農耕作業に使用された鉄製刃先の考古学的考察と、道具と祭祀との関係が紹介されている。特に、祭祀の際に鍛冶工人が実際に出向いてその場で実演することで結果的に農具の画期が実現したという話に感心した。

清水康二「鏡」

奈良時代くらいまでの中国や日本の鏡について形態・製法・使用法など様々な側面から紹介している論考。鏡が展示されるときは、大抵、文様を見せるために裏面を向けられているのが他の考古資料と異なる、なるほど。

金田善敬「鉄釘の技術」

『ねじとねじ回し』(読書メモ)のときも思ったことであるが、こういった物と物とを接合する道具は、物を切削する道具とは違った面白さがある。何に何をつなげるかという想像力。

【読書メモ】榊原英輔・田所重紀・東畑開人・鈴木貴之編『心の臨床を哲学する』新曜社, 2020

榊原英輔「精神医学の「二つの心」」

人類学者ラーマンの"Of Two Minds” (2001) を紹介しつつ、生物医学的および精神力動的精神医学という「二つの心」を相容れない精神疾患の説明モデルとして提示する。これは精神医学の多元性を示してもいる。

田所重紀「精神療法家は人の人生観にどこまで踏み込めるのか」

心の健康の回復と増進を目指す治療が「「精神療法」という名を借りた「人生観の押しつけ」」とならぬよう、心に関する普遍的な立場として自然主義実在論に依拠するべきとする。

鈴木貴之「精神医学の多元性と科学性」

同論文集冒頭の榊原さんの論考で精神医学の「多元性」が登場したが、その内実を詳しく紹介してくれている鈴木さんの論考。多元主義といっても様々なタイプがあり、どれを採用するかでだいぶ変わる。

穏健な多元主義〈分業的多元主義–協業的多元主義〉、ラディカルな多元主義〈システム論的多元主義–方法論的多元主義〉。基本的にはこの四つの多元主義が紹介されている。システム論的〜では心的因果がいかに物理的な因果に介入可能かが問題になり、方法論的〜ではその方法の内実の整備が問題となる。

信原幸弘「感情労働と心の病」

受動的な感情ではなく能動的な感情(の管理)にスポットを当てる。感情に対するある種のコントロールが心の病の原因になるとして、そのような種類の感情管理とはいかなるものであるかを整理・紹介する論考。

渡邊芳之「性格心理学をめぐるいくつかの問題」

性格の一貫性の議論を中心に、方法論あるいはその成果利用の問題などを紹介する論考。われわれは素朴に一貫した性格を仮定して暮らしているが、それを正確に捉えることの難しさがわかる。

近年では性格概念が社会的成を予測するものとしても利用されているらしい。しかし次のことは重要。「性格と社会的成果との関係は、あくまでもたくさんの個人の特徴を統計的・疫学的に分析したときに見えてくるもので、個人の人生を予測するようなものではない」(同論文, p. 164)。

植野仙経「精神科医はどのようにして心を理解するか?」

自分が誰かの心を推し量るときに一体何をしているのか、ということを改めて考えるとわからなくなる。論文では、シミュレーション説を中心にモデルの話が紹介されていて、勉強になった。

井原裕「「クイ・ボノ」(”Cui Bono?”)—精神医学は「あなたのためを思えばこそ」なのか?」

「あなたのため」という理由づけに対する60–70年代の反精神医学の批判的言説から漏れ、いまだに反省されぬまま残る「措置入院」制度に対する批判。

佐々木拓「薬物依存者に対する適切な非難のあり方—非難の関係性説に基づく依存行動への対応」

相手の能力を正確に捉えることで責任能力を局在化し、関係性に基づく非難を行うべきだとする。非難が意図と期待の変更だとする話は勉強になった。

「薬物依存者への適切な関わり方は、われわれにとっての適切な関係の延長線上にある」(同論文, 241)と結ばれているように、ここで書かれている話は、一般に他者との関係を互いに傷つかないものへと擦り合わせてゆくさいに必要となることでもある。この論文集のなかでも特におすすめの一本。

石原孝二「精神障害精神疾患)とは何か」

DSMにおける精神障害の定義の変遷を追いつつ、それらがカテゴリー的アプローチであることを示し、最近の動向として、DSMやICDにかわるディメンジョン・モデルのプロジェクトとしてRDoC等を紹介。

石原さんの2018年の著書『精神障害を哲学する:分類から対話へ』(東京大学出版会)の第5章にあたる内容であった。ディメンジョン・モデルに基づくプロジェクトとしてHiTOPが紹介されていて、これは書籍の方には登場していなかったように思う。この辺の動きが精神疾患の分類問題の最先端なのだろう。

新型コロナ影響下におけるFedExの配達状況(6月13日発 香港から東京へ)

国際郵便がうまく動いていない状態なので、香港の会社から購入した商品がFedExで届きました。具体的な配送状況はネット上にいくらあっても無駄ではないと思いますので、こちらに記録を残しておきます。香港から一度台湾に行って、また広州の方に戻って行ったのが印象的でした。

Shipment Facts

SERVICE
International Priority
WEIGHT
4.7 lbs / 2.13 kgs
DIMENSIONS
19x10x4 in.
DELIVERED TO
Residence
TOTAL PIECES
1
TOTAL SHIPMENT WEIGHT
4.7 lbs / 2.13 kgs
PACKAGING
FedEx Pak
SPECIAL HANDLING SECTION
Deliver Weekday, Residential Delivery
SHIP DATE
Sat 6/13/2020
ACTUAL DELIVERY
Tue 6/16/2020 1:27 pm

Travel history

Tuesday, 6/16/2020

1:27 pm ------------------ JP Delivered

Monday, 6/15/2020

5:12 pm TOKYO-KOTO-KU JP In transit Tendered to authorized agent for final delivery
1:19 pm TOKYO-KOTO-KU JP International shipment release - Import
10:36 am TOKYO-KOTO-KU JP In transit Package available for clearance
6:36 am NARITA-SHI JP At destination sort facility
2:24 am GUANGZHOU CN In transit
1:58 am GUANGZHOU CN Departed FedEx location

Sunday, 6/14/2020

11:17 pm GUANGZHOU CN Arrived at FedEx location
6:28 pm TA YUAN DISTRICT TW In transit
6:26 pm TA YUAN DISTRICT TW In transit
12:02 am LANTAU ISLAND HK In transit

Saturday, 6/13/2020

3:20 pm TSUEN WAN HK Left FedEx origin facility

Wednesday, 6/10/2020

4:32 pm Shipment information sent to FedEx

会話をしながらノートをとりたいな

ノートをとるのに紙とシャープペンを使わなくなって3年目になる。以前は罫線にドットの入ったコクヨのノートを使用していたが、iPad Pro を購入して以来、止むを得ない場合を除いて(事務書類などの場合を除ねばならない)あらゆる筆記活動をデジタル化してきた。基本的に GoodNotes というアプリを使用しており、このアプリの使い心地に関する詳細はこの記事の主題から逸れるので扱わないにしても、iOS のノートアプリのなかでは比較的おすすめできるものだと思う。

この記事で主題にしたいことは、必ずしもデジタルノートに限った話ではない。むしろノートのとり方に関わる話である。私は次のことを最近はじめて理解した。講義を受けたり人の話を聞いているだけの場面であればうまくノートをとることができるのだが、自分からもたびたび会話に参加するような場面ではそれが難しいのだ。何を今更と思われるかもしれない。たしかに私自身、そういった事実があることはすでに知っていた。しかしながら、そのことについて改めて何かを考えようとしたことがなかったのである。何にせよ、どのようにこの困難を解消するべきなのだろうか。

この場合の解決策は、問題となっている原因に対して何らか対処することにあるだろう。なぜ積極的な会話の場面でノートをとるのが難しいのだろうか。

  1. 手を動かす時間が足りない
  2. 話をまとめるために考える時間が足りない

つまり、手を早く動かし、話をまとめきらずにノートをとれば、会話に関する何かしらの記録を残すことが可能になるだろう。とはいえ、それはノートをとったことになるのだろうか。私としては後から見返して、そこで話し合った重要な部分に関して後から再構成できる程度のノートをとりたいと考えている。それを考慮すると、質を落とすことで時間を短縮するという方法はとることができそうにない。

自分が会話に参加していないときには十分なノートをとれることを考えるならば、問題は自分の有限な身体的および精神的リソースが会話に持っていかれてしまっていることにある。会話によって削られた能力には、もはや十分なノートテイクに対応できる力は残されていないのだろう。だとすると、会話をしながらノートをとるということを諦める必要が出てくる。とはいえノートはとりたい。

会話しながらノートをとることが難しいならば、会話が終わってからノートをとればよいだろう。あとでキチンとしたノートをとることにして、会話中には簡単なメモを残しておけば良いのである。このきわめて単純な解決策にいたるまでの道のりが長すぎるとの見方もあるかもしれない。しかしながら、会話中は簡単なメモにとどめておくのが最善であることについて、自分で納得できる理由を用意しておくことは重要である(そして、何に関してもそうなのだ)。

そういうわけで、最近はこの簡潔なメモのために紙と鉛筆を使用するようになった。とはいっても、大きなノートではなくて、四角い付箋をつかってメモをとることにしている。というのも、紙のサイズによって不可避的にメモが簡素なものとなるからである。大きな紙に意識的な仕方で短いメモを残すよりも、小さな紙に無意識的な仕方で「短くなってしまった」メモを残す方が、気持ちとして楽であろう。

会話が終わって時間ができたときに、できるだけ早めに iPad のノートに清書しておくのがコツである。簡素なメモだけでは、時間と共に多くのことが忘れ去られてゆくし、何よりメモが溜まってしまったときの絶望感は容易に想像できる。できるだけ目立つところに付箋を貼り付けておこう。

通常の人間である以上は様々な物事を忘れてゆくものであるから、もし忘れたくないことがあるならば、何らかのノートをとるしかないだろう(録音でもよいが聞くのは大変だ)。この記事は、そのようなノートをよりよくするための方法と、その方法を実行するための理由に関するものであった。

読書会・勉強会案内(2020/7/8更新)

開催中・開催予定も含めて私が主宰する読書会の案内です。適宜更新されます。
連絡は三浦(amenbo031129[アットマーク]gmail.com)か、Twitterの方にお願いします。

[開催中]〈ゲームの哲学〉研究会

ビデオゲームボードゲームといった遊びに関して、学術的にどのような議論が可能であり既に為されているのか、といったことを調査・検討してゆくことを目的としています。さしあたり日本語で刊行されているゲーム関連の学術書を読み進めてゆきます。現在は、イェスパー・ユール『ハーフリアル』(松永伸司訳, 合同会社ニューゲームズオーダー, 2016)を読んでいます。

日時:隔週水曜日午前中(初回は2020/7/22)

場所:Zoom

進行形式:各自事前に課題箇所を読み、それぞれ興味ある点や疑問点などをA4用紙1枚分にまとめて持参し、それを中心にして議論を進める。

対象者:学生、社会人

使用言語:日本語

 

[開催中] ライプニッツ形而上学叙説』を読む会

Oxford University Press から最近刊行され始めた Leibniz from Oxford シリーズのうちの Discourse on Metaphysics (https://global.oup.com/academic/product/leibniz-discourse-on-metaphysics-9780198829041?lang=en&cc=us)の注釈を参照しながら、中期ライプニッツの哲学的主著であるところの『形而上学叙説』を読み進めます。このテクストでは、完足個体概念や世界の最善性などに関する重要な議論が展開されています。主宰の三浦が、仏語対訳および先の文献の注釈に関するレジュメ、参照すべき別のテクスト等を準備し、それらについて紹介したのちに、参加者の方々と議論してゆくというスタイルで行います。

日時:隔週日曜日午前中

場所:Zoom

進行形式:解説型で毎回1節ずつ程度(とはいえ、参加者同士での議論にも十分に時間を割きたいと考えています)

対象者:ライプニッツ哲学に興味を持っている方一般

使用言語:日本語(ライプニッツの原文は仏語ですが、未学習者にも理解可能な仕方で議論をしたいと考えています)

 

[企画段階] 近世生物学史勉強会

古い時代から生物を扱う科学者達の間では様々な理論が提出されてきました。それらの理論は、歴史の網の目の中で、明らかな仕方であれ隠れた仕方であれ、現代のわれわれの生物観にも少なからぬ影響を与えているといえるでしょう。この勉強会では、近世とくに17世紀から19世紀に焦点を絞り、近年の科学史的研究がどのような生物学史を描こうとしているのかを学んでいきたいと考えています。さしあたり Charles Wolfe, La philosophie de la biologie avant la biologie: Une histoire du vitalisme (Classiques Garnier, 2019) (https://classiques-garnier.com/la-philosophie-de-la-biologie-avant-la-biologie-une-histoire-du-vitalisme.html)を読んでいこうと考えています。本の入手はともかく、とりあえず興味ある方は声をかけていただければ嬉しいです。

日時:隔週予定(参加者の方々と調整したいと思います)

場所:参加者が近場の人だけの場合は東京大学本郷キャンパス、オンラインも可

進行形式:輪講型(毎回担当者がレジュメ等を切ってくる)

対象者:だれでも

使用言語:日本語、英語、仏語

ライプニッツ文献情報:『形而上学叙説』の原典と翻訳を中心として

以前、当ブログの「ライプニッツ『形而上学叙説』研究会」の成果と訳」の中で公開していたテクスト情報が少し古くなっていたので、情報を追加・修正して以下に公開します。主に『形而上学叙説』を中心とした情報になっていますが、ライプニッツに興味ある方全般に役立つのではないかと思われます。追加すべき情報等があればご連絡ください。

 

[原典] Briefwechsel zwischen Leibniz, Arnauld und dem Landgrafen Ernst von Hessen-Rheinfels, ed. C. L. GROTEFEND, Hannover, 1846.
『叙説』はライプニッツの生前には結局未発表のままであった。19世紀の中頃にようやくグルーテフェントによって公刊されることになるが、当時はあまり注目されることはなかったらしい。たしかに、有名な「モナド」という言葉もここには登場しないのだから、当然といえば当然なのかもしれない。この後、1857年に公刊されたフーシェ=ドゥ=カレーユ版というのも存在している。


[原典] Die philosophischen Schriften von G. W. Leibniz, hrsg. von C. I. Gerhardt, Weidman, 1875–1890 (Nachdr., Olms, 1978), Bd. IV, pp. 427–463.
いわゆるゲルハルト版と呼ばれるものであり、GP や G と略されることが多い。アカデミー版が出版される以前はこちらが主に参照されていた。現在でもアカデミー版未公刊のテクストに関してはこちらをよく参照する。


[原典] Sämtliche Schriften und Briefe, Akademie Verlag, 1923–, Sechste Reihe, Vierter Band, pp. 1529–1588.
いわゆるアカデミー版と呼ばれるものであり、Ak や A と略されることが多い。現在のライプニッツ研究ではこの版が基本となっている。テーマ毎に分けられた8つの系列から成り、それぞれの系列内で年代順に巻数が割り振られている(例えば、第6系列の第4巻であれば A VI, 4 などと略される)。系列は次のようになっている。

  1. 一般的および政治学的、歴史学的書簡
  2. 哲学書
  3. 数学および科学技術に関する書簡
  4. 政治的著作
  5. 言語学および歴史学著作
  6. 哲学著作
  7. 数学著作
  8. 科学および医学、技術に関する著作

とはいえ、未公刊のテクストも多く、後期哲学関連のテクストのほとんどがまだ公刊されていない。ただし有名な後期著作である『人間知性新論』 だけは、諸事情(いろいろあるらしい)により、すでに公刊されている。『叙説』に関しては、ゲルハルト版がライプニッツも目を通したとされる写本をもとにしている一方で、アカデミー版はライプニッツ自身の手稿をもとにしている。アカデミー版にはゲルハルト版やほかの写本などとの異同が示されており、詳細な読解を目的とする場合には、まずこの版を見るべきであろう。


[原典] Discours de métaphysique suivi de Monadologie et autres textes, éd. M. Fichant, Gallimard, 2004.
研究者はアカデミー版を見るべきかもしれないが、異同まで気にせず読むのであれば、この Fichant 版が良いと思う。ありがたいことに『モナドジー』や他の関係テクストも一緒に収録されており、ライプニッツの基本的なテクストをおさえている。さらに、この本の最初に附された長い(130頁くらいある)イントロダクションは、ライプニッツ形而上学の中期から後期にかけての連続と断絶を論ずるさいによく引用される箇所であり、重要な文献である。注も充実しており、ペーパーバックで安いので、一冊持っておくのにはおすすめ。


[原典] Discours de métaphysique, correspondance, éd. C. Leduc, Vrin, 2016.
この版のありがたいところは、左右余白にアカデミー版のページ数が附されているという点である。最近の論文での引用を手軽にたしかめることができる。また、「ライプニッツ-アルノー往復書簡」も収録されている点は重要である。この書簡は『叙説』をめぐるさまざまな問題に関するものであり、両テクストを合わせて読むことで『叙説』の理解が深まることは確かであろう。あと、これは本質的なことではないかもしれないが、紙質が(多少だけど)良いので破ける心配がないのも嬉しい。


[翻訳] 『形而上学叙説』, 河野与一訳, 岩波文庫, 1950.
日本におけるライプニッツ研究の歴史は古いが、その中でも彼の翻訳業は極めて重要な意味を持っているだろう。岩波文庫に入ったのは1950年であるが、1925年に哲学古典叢書として岩波書店から出版されていたものを改訳したのが、この訳である。解説を見ると、大正12年(1923)の夏から翻訳に着手したとある。哲学分野においては日本最古の学術雑誌『哲学雑誌』(『哲学会雑誌』から改名)の1916年の巻には——これはライプニッツ没200周年の記念シンポジウムの記録なのだが——諸氏によるライプニッツの論考が発表されており、桑木厳翼氏や井上哲次郎氏、田辺元氏、西田幾多郎氏など当時の主要な顔ぶれがライプニッツに注目していたことがわかる。そんな空気の中でこの邦訳が出たのはある意味必然であったかもしれないが、それにしても、今読んでも勉強になる訳である。ただし、現在はちょっと手に入りづらいのと、旧字体で読みづらいなどの理由で、あまりおすすめはしていない。


[翻訳]『モナドジー形而上学叙説』, 清水富雄・竹田篤司・飯塚勝久訳, 中公クラシックス, 2005.
『叙説』の部分は清水・飯塚訳である。この翻訳は、1969年の『世界の名著 25』およびそのソフトカバー版『世界の名著 30』(1980)をそのまま持ってきたものである。実は『世界の名著』ではスピノザと一緒に収録されており、ライプニッツ著作を『エチカ』とともに読める優れもの(?)であった。それが中公クラシックス版ではライプニッツ著作だけになってしまい、ちょっと残念ではある。全体的に(特に『モナドジー』は)すこし訳が緩めではあるが、手に入りやすさと、『モナドジー』も一緒に収録している点で、彼の著作をとりあえず何か読んでみたいという方にはおすすめの一冊である。


[翻訳]『ライプニッツ著作集』全10巻, 下村寅太郎 山本信 中村幸四郎 原亨吾監修, 工作舎, 1988–1999.
工作舎さん及び同社の十川さんによる偉大な仕事のひとつ。第8巻に西谷裕作氏の翻訳で『叙説』が収録されている。全10巻の構成は以下のとおり。

  1. 論理学
  2. 数学論・数学
  3. 数学・自然学
  4. 認識論:人間知性新論(上)
  5. 認識論:人間知性新論(下)
  6. 宗教哲学:弁神論(上)
  7. 宗教哲学:弁神論(下)
  8. 前期哲学
  9. 後期哲学
  10. 国学・地質学・普遍学

世界的に見てもこれだけのライプニッツ著作がシリーズとして翻訳出版されているのは珍しいことである。少しお値段が張るので個人で所有するにはつらいかもしれないが、持っておいて損はない。『弁神論』の全訳を日本語で読めるのは、今のところ、この著作集だけである。著作集第II期の完結を機に、この第I期も新装版で復刊された。


[翻訳]『ライプニッツ著作集 第II期』全3巻, 酒井潔 佐々木能章監修, 工作舎, 2015–2018.
これもまた、工作舎さん及び同社の十川さんによる偉大な仕事のひとつ。膨大にあるライプニッツ著作のなかには、第I期著作集では翻訳されなかった重要著作がまだまだ残っていた。この第II期では、前回扱われなかった分野にテーマを絞り翻訳が行われた。以下の通りである。

  1. 哲学書簡:知の綺羅星たちとの交歓
  2. 法学・神学・歴史学:共通善を求めて
  3. 技術・医学・社会システム:豊饒な社会の実現にむけて

とくに哲学書簡の巻には当時の王妃たちとの書簡が収録されており、そこで自らの哲学を解説するライプニッツは、我々の理解を助けてくれることであろう。ちなみに、工作舎のサイトで公開されている「ライプニッツ通信」は面白いのでおすすめ。


[翻訳] 『形而上学叙説・ライプニッツ-アルノー往復書簡』, 橋本由美子監訳 秋保亘 大矢宗太朗訳, 平凡社ライブラリー, 2013.
個人的なことであるが、私に哲学を教えてくれた橋本由美子先生が監訳したものである。そのような個人的な思い入れもあるが、日本語として優れているとの評価を人々から聞くので、客観的にみても良い翻訳なのだろう。さらに、この訳書の良さとして強調したいのは、『叙説』と「ライプニッツ-アルノー往復書簡」の対応関係を明確に示している点である。『叙説』の本文中に書簡の対応頁数を、書簡の本文中に『叙説』の対応節番号を挿入することによって相互の連関が示され、どちらの著作もこれまでとは違った様相を呈している。手に入りやすさ、値段、そして訳の親切さなど、どの点をとっても私はこの翻訳を人々におすすめしたい。


[原典および注釈] P. Burgelin, Commentaire du Discours de Métaphysique de Leibniz, PUF, 1959.
『叙説』の注釈書である。節ごとに長いコメントをつけているものというのは、実はけっこう珍しく、研究会ではかなり重宝した。ただし引用の仕方が雑なので原典を参照しようとするとなかなか難しかったりと、難ありな研究書ではある。とはいえ、『叙説』という濃縮されたテクストを読む上で、まず解凍作業が必要であり、そのさいには丁寧に他のテクストに関連付けながら解説してくれているこのような注釈書は、大変参考になるのである。

 

[翻訳および注釈] Gonzalo Rodriguez-pereyra, Leibniz: Discourse on Metaphysics (Leibniz from Oxford), OUP, 2020.

最新の『叙説』に関する翻訳および注釈書。最近はじまったシリーズ Leibniz from Oxford に収録されており、現時点では、他にも『結合法論』の全訳が公刊予定となっている(2020年4月5日現在)。本巻では、『叙説』の各節に対してかなりの分量の注釈が施されており、読解に役立つのではないかと予想される。私の方でもこれから検討してゆく。

ミシェル!ミシェル!!|『禁じられた遊び』は未だに(※ネタバレ注意)

ルネ・クレマン監督『禁じられた遊び』(1952)に関係する何事かについて、私が得た最初の知識は、何よりもまずその音楽に関してであった。『禁じられた遊び』の劇中の音楽は、(どうやら予算の関係で)ナルシソ・イエペスのギター1本で演奏されている。このギター曲が初心者にちょうどいいということで、昔のギター教則本を開くと「愛のロマンス(『禁じられた遊び』より)」という題名で楽譜が載っていたものである。当時、映画をみたこともなかったし、演奏されたものを聞いたこともなかった私は、なんとなく楽譜をなぞってみて、なるほど退屈な曲だなと、真面目に練習することもなかった。だから、私の『禁じられた遊び』に対するイメージは、昔の教則本に載っている退屈な練習曲の映画、という程度のものであった。

その後、何かの本を読んでいたら、この映画についてさらなる知識を得る機会に遭遇した。どうやら『禁じられた遊び』という映画は、少年と少女が一緒にお墓を作る反戦映画、らしい。お墓を作る映画というのは世の中にどれほど存在するのだろうか。お墓に入る映画はたくさんあるが、お墓を作る映画というのは。自分の小さい頃を思い出してみると、たしかにお墓というものを作った記憶がある。カブトムシだったか、クワガタムシだったか忘れたが、私は死んでしまった何かのため、庭に穴を掘り、目印の木を挿してお墓とした。もしかしたら何か文字も刻んだかもしれない。とはいえ、少年時代の私にとって、それが何ムシだったかも忘れてしまうほどに、「その」生き物が死んだことには興味はなかったのであろう。お墓を作りたかったのだ。何かを弔いたかった。あるいは、自らで儀式を主催してみたいと思ったのかもしれない。

映画『禁じられた遊び』の話に戻そう。最近になってやっとこの映画を見ることができた。簡単にあらすじをおさらいしておくと以下のようになる。第二次世界大戦中、ドイツ軍の戦闘機の機銃掃射によって両親を亡くした少女ポーレットと、少し年上の牛追い少年ミシェルとが出会うところから、物語は展開してゆく。死んだ子犬を抱えるポーレットに、ミシェルは「死んだものにはお墓をつくるものだ」と教える。ポーレットはお墓や祈りというものをそれまで知らなかったのだが、ミシェルに教えられ、二人で秘密の水車小屋に埋葬し十字架を立てる。「子犬がひとりで可哀想なのでもっとお墓を作ってあげたい」というポーレットに、ミシェルは、モグラやヒヨコの死体を探してきてはそこに埋葬する。二人のお墓作りは徐々に盛り上がり、ミシェルはついに、本物の墓場から十字架を何本も盗み出してしまう。多くの十字架とともに装飾された水車小屋、それはポーレットのためにミシェルが作り上げた賑やかな秘密の墓地であった。結局、ミシェルの十字架泥棒はバレてしまうし、ポーレットも孤児院送りになってしまう。「ミシェル!ミシェル!!」と駅の雑踏で叫び走り去ってゆくポーレットの姿を映して映画は終わる。

原題は « Les Jeux inconnus » であって直訳すれば『知られていない遊びたち』である。これを『禁じられた遊び』としたのは、かなり内容も込めた翻訳であろう。この映画の紹介を読むとたいてい「反戦映画だ」と書いてある。なるほど、そのとおりなのだが、反戦映画は無数に存在している。この映画は何がどのように反戦的なのかが問われなければならない。この映画が映し出したもの、それはポーレットとミシェルの「禁じられた遊び」、つまりお墓作りであった。それも、際限なくエスカレートしてゆくお墓作り。戦争によって両親が殺される悲惨さを訴えることでも、孤児になって泣きながら引き離されることになったことでもなく、この映画が反戦映画として訴えようとした最も中心的なことがらは、その無邪気さではなかったか。戦争の被害者ともいえる子供達が、戦争と類比的な遊びをすること、つまり際限のないお墓作りをすること。戦争とは、子供達の禁じられた遊びに他ならないのではなかったか。

お墓作りの際限のなさは、最初に言いだしたポーレットによって推し進められるのではない。働き者はミシェルなのだ。無邪気さは、エロチシズムと両立するだろう。子供を愛欲の対象としてはならないという禁止、しかし子供同士の場合はその限りではないかもしれない。ともかく、ミシェルはポーレットのためにひたすらにお墓を作るのである。同様に、戦争という禁じられた遊びの際限のなさもまた、何かへと向けられたものだと言わんとしているのではないか。それは例えば、ナチス・ドイツにおいては人種主義であるかもしれず、あるいはどこかでは金が光っているかもしれない。

ミシェル!ミシェル!!と走り去ってゆく少女の姿を見送りながら、「愛のロマンス」は退屈な曲なんかではなくなった。古ぼけたギター教則本に掲載された、古ぼけた楽譜の、古ぼけた音楽ではなくなった。われわれの社会は、相変わらず、ポーレットとミシェルと同じくらいに無邪気ではないか。たまに「子供とはそんなに無邪気ではない」と言われることがある。つまり、非無邪気な大人と同じくらいに子供も非無邪気なのではないかというのである。そうではないと思う。むしろ、大人も子供と同じくらいに無邪気なのではないか。さらに言えば、古ぼけた過去だけが無邪気なのではなく、現代もやはり無邪気なのではないか。われわれは、何かに突き動かされ「禁じられた遊び」を楽しんでいないか。もはや「愛のロマンス」は退屈な曲なんかではなくなったのだ。